清風 2016年1月

テーマ:清風 【住職】

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<  頌 春  >

以和為貴(和をもって貴しとなす) 聖徳太子

自分の国を愛するのに、どうして他人の国を憎まねばならぬ必要があろうか。 中野重治

仏成道暦2444年 元旦    本年もどうぞよろしくお願いします。

「和讃」に聞く 2016年1月

テーマ:[和讃」に聞く



弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

<意訳>

弥陀が成仏されてから、すでに十劫という長い長い時を経て現在したもう。
清浄な仏身の光明は遍く智慧のない愚かな者(この私)を照らされる。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

先月号の最後に、―「世の盲冥を照らす」と言われているのは、私どもは本当の自己に出会っていないのだという、私が思ってもみなかった事実に気づかされた先輩方(釈尊、親鸞、そして現代にまで仏法を伝えてきた求道者)の驚き・目覚めであるとともに、讃歎であり、懺悔の告白であったのです―と書きました。
他ならぬこの私は、誰から教えられたわけでもないのに「我が思い」というものを「自己」として、今までも、これからも生きていくのでしょう。
要するに、その時「我が思い」に適うことは善であり適わないことは悪と思って、日常の生活を送っているのです。
何が善であり何が悪かは、今更問うまでもないことだと。
「悩む」ということは、この前提があって生じているのです。
起こったことが善であれば、それはもう「当たり前」のことになるわけです。
この「当たり前」にしてきたことが「悩む」ということの根になっているのです。
では何故「悩む」ということが、現代において取り分けて問題になるのでしょうか。
つまり「盲冥」とは、私たちがこの事実に盲いために「悩めない」のであって、「悩まされている」のです。
先月号の1面で、83歳男性の方の問題提起「長生きはめでたい事なのか」という投書を紹介しましたが、この方の場合「長生きはめでたい事」だと思ってこられたのでしょう。
しかし、健康不安・老いに伴う身体機能の衰えを見たり聞いたりすることによって、他ではないこの私(自分)のものと思っていた身体そのものが「我が思い通りにならない」という事態を目の当たりにして、「当たり前」としてきたことが当たり前ではなかったのだと認めざるを得なくなったというわけでしょう。
あの太閤・秀吉が「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と辞世の句に詠んだごとく、あの栄華が、露と落ちるはかない事などとは思ってもみなかったということでしょう。
この歌に比べる時、水木しげるさん(漫画家・先月93歳で命終)が、「あなたにとって幸せとは何ですか」と問われて「呼吸の出来ることです」と答えられたことに、「生きるということの厳粛な事実」を誰しも感得されるのではないでしょうか。
ことわざにも「出る息、入る息を待たず」―この一呼吸の間が生きてあることだと教えているように。
では、その「生きていることの厳粛な事実」とは、いったいどういう事態を指しているのでしょうか。(続く)

お庫裡から 2016年1月

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60代最後のお正月を迎えました。
500匁(1875g)の片手に乗るほど小さい紫色の塊で生まれてきたと聞かされてきたこの私が、この齢まで大病をすることもなく、よくぞいのちを長らえさせていただいてきたものだと、新年にあたり、ようこそようこそと感慨もひとしおです。
林暁宇先生のことば、「あなたの人生、実りましたか。何度か花は咲いたかもしれんが、実らなければなんともならん。」
果して私の69年の人生、実っているか、深い問いです。

人権委員になってまだ3ヶ月、何も知らないから言えることですが、委員になった人は、ほとんどの方が色々の人生経験を経てこられたばかりのようです。
それが子どもの使いの様なことをする(時もある)、その時のアホらしさ、時間の無駄さ。新米委員同士で「なーにぃ」「もー、何、これは!」と腹立ち比べ。
そうして家に帰ると「お前さんの腹立ちは、何でやー」と問うものが表れる。
「子どもの使いやて、お前が自分をいっぱしの者やと自分評価しているから、アホらしいと思うのと違うか」「新人と言いながら、自分評価が髙過ぎて、教えてくださってる事が聞こえてこんのと違うか」私の中の問いかけ人は、追求の手を休めません。
ああ、私は傲慢、それを強く握っておりました。南無。
私は実っておらぬということを、知らされて歩む。それしかありません。
歩むべき道 見つかりて年新。
本年もどうぞよろしく   尚子

今月の掲示板 2016年1月

テーマ:今月の掲示板

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悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているのですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は、世の中にある筈がありませんよ。
平生はみな善人なんです。
少くともみんな普通の人間なんです。
それがいざという間際に急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断が出来ないんです。
(「心」より 夏目漱石)

世の中に片づくなんてものは殆どありゃしない。(略)
ただ色々な形に変わるから
他人にも自分にも解らなくなるだけのことさ。
(「道草」より 夏目漱石)

私の目は、いつも評価というめがねをかけて相手を見ている。
相手を見ているというが、相手を通して自分の評価を見ているのだ。

自分が自分だと思っている自分は
意識された自分だ。

自分は自分をつかまえられない。
つかまえられない自分とは何か。

あなたの人生実りましたか。
何度か花は咲いたかもしれんが、
実らなければなんともならん。(林暁宇)

念仏することをもって
我々人間の問題を解決するのではなく
念仏において
我々の問題がいっさい解決されているのである。(安田理深)

窓  榎本栄一
この窓から いまみえるのは
きょうの一日
きのうは もうみえない
あすは まだみえない

不幸をも幸福に転じていけるような幸福
それが阿弥陀さんの救いの中味です。

下座 -自分に-
こころはいつも下座にあれ
ここは ひろびろ
ここでなら
なにが流れてきても
そっと お受けできそう(榎本栄一)

本堂に座って 2016年1月

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今月も先月に引き続き、三谷宏治さんの本『お手伝い至上主義でいこう!』から、子どもたちに「与えたいもの-お手伝い」について書かれている部分を引用させていただきます。

価値観の醸成やさまざまなスキル向上に(おそらくはもっとも)役立つものが、家庭での「お手伝い」なのです。
これをどれだけしっかりやれるかによって、子どもたちが社会人になったときの「人間力」や「生活力」が大きく変わってきます。
お手伝いをすることで、子どもたちは段取りよく動くことを覚え、さまざまなことに気を配り、自ら考えて体を動かすようになります。
そしてさらに大切な、感謝する心が身に付いていくのです。
しかしながら、お手伝いは人気がありません。
理由は簡単です。
親がそもそも、子どもにお手伝いをさせようとは思っていないからです。
親としてみれば、「子どもにお手伝いをちゃんとさせる」ことは手間の掛かる面倒くさいことです。
部屋の掃除を任せることは、イコール、部屋が片付かない、ということですし、片付けさせるためにさまざまな声かけや作戦が必要になります。
自分がやってしまった方が、親の労力も数分の1ですむでしょうし、互いのイライラもなくなります。
でも子どもたちの将来を考えたとき、お手伝いをさせることは最大の効果ある投資なのです。
お手伝いを子どもたちにちゃんとさせるには、親のガマンの他にもう1つ、条件があります。
多くの家庭では、子どもたちは忙しすぎ、お手伝いなどするヒマがありません。
あったとしても、勉強の方が「ダイジ」でそれをやると言えば、他は何をしなくても許される状態です。
これではお手伝いの入り込む余地はありません。
対処はある意味では簡単です。
お手伝いを「家庭の中での第一優先事項」にすればいいのです。
これを「お手伝い至上主義」と名付けたいと思います。
お手伝い至上主義なんてとんでもない!そんなことをしたら、ホントに勉強しなくなっちゃう。
宿題を全くしなくなったらどうしてくれるの?という声が聞こえてきそうです。
ただ、どう考えても、【子ども】宿題しない→【親】アメやムチで宿題をさせる→【子ども】ますます自分からは宿題しない→【親】さらなるアメとムチ…は、ただの悪循環です。
目指すゴールは「子どもが自立的に宿題をする」のはずです。
ゆえに、まず考えるべきコトは、どうやったらその子が「自立的にモノゴトを行うのか」ではないでしょうか。
お手伝いは、その答えの一つだと思います。
お手伝いをすることで自立的に考え動けるようになり、それが学力向上にも役立つのです。
では、今の子どもたちにどんなお手伝いをさせましょうか。
「家事手伝い」、つまりお母さんとお父さんがやる家の中の仕事=家事を子どもたちが徹底的に分業するのが基本です。
もちろん、自分の部屋の片付けや学校に行く準備は当然です。
大事なのは「任せる」ことです。きちんと責任の所在を明らかにするためにも、安易に手伝ってはいけません。
少しくらいダメでも、親が代わりにやってしまうのではなく、ガマンしてやらせましょう。
また同時に権限も与えなくてはいけません。
庭掃除を週に1回やると決めたなら、いつやるかは本人に任せるとか。
そのお手伝いに関する責任と権限を明確にして、仕事として子どもにちゃんと任せましょう。
家事のお手伝いがちゃんとできる子は、当然、ひとり暮らしになっても生活に困りません。
でも、お手伝いを続けることで、もっと根本的な生活力もついてきます。
それが、段取り力や意思決定力、問題解決力であり、ひいては就職力につながります。
お手伝いを生活の最上位に位置づけることで、親のやっている仕事が家族においてもっとも大切なことなんだという価値観も伝えることができるでしょう。
(『お手伝い至上主義でいこう!』三谷宏治 著より抜粋して引用しました。)

本の中では、楽しくお手伝いをする工夫についても書かれています。
親も子どももお互いに苦痛なお手伝いでは長続きしません。
「できる限り徹底的に、できれば楽しく」というお手伝いは、「ただの指示や過干渉」とは違いますね(反省)。

今日も快晴!?2016年1月

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12月の土曜日に、子どもたちを連れて「ガラスのうさぎ」の上映会に行きました。
「ガラスのうさぎ」は、12才の少女・敏子が東京大空襲の経験を通して、戦争の本当の悲惨さや恐ろしさを知り、そして、その後の混乱と厳しい生活を生き抜きながら、平和への願いを渇望する感動の作品です。
丁度夏休みに子どもたちに読み聞かせをした本だったので、子どもたちにとっても記憶に新しかったようです。
もう映画を観ながら揃って号泣し、娘も両ほほに涙の跡がくっきり残り、「泣きすぎて眠い…」とふらふらになって帰宅しました。
ざっとの物語は、1945年3月10日。
東京大空襲でお母さんと妹二人を失った12才の敏子は、さらに疎開の途中米軍機の爆撃に遭い、お父さんも亡くしてしまいます。
一人ぼっちになった敏子に残されたのは、焼け跡から見つかった半分溶けたガラスのウサギでした。
たったひとりになった敏子は、絶望の果てに死を見つめ深夜の海をさまよいますが、「私が死んだら誰がお父さん、お母さん、妹たちのことを覚えているの?私は生きなければ…」と、孤独と悲しみの中で心を奮い立たせる…というものです。
映画のラストは、あたらしい憲法のはなしという当時の教科書が読み上げられます。
改めて、日本国憲法ってなんて素晴らしいんだろうと感動しました。
「戦争の放棄(憲法第九条)」…「今度の憲法では、日本の国が決して2度と戦争をしないように…兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは一切持たないということです。
これを戦力の放棄と言います。
「放棄」とは「すててしまう」ということです。
しかしみなさんは、決して心細く思うことはありません。
日本は正しいことを、他の国よりさきに行ったのです。
世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」。
本当にその通りです。集団的自衛権もオスプレイも基地も必要ありません。
会場で受け取ったパンフに掲載されていた「自由と平和のための京大有志の会」の声明文もとても良かったので、全文を紹介させてもらいたいと思います。
「戦争は、防衛を名目に始まる。戦争は、兵器産業に富をもたらす。
 戦争は、すぐに制御が効かなくなる。戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
 戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも災いをもたらす。
 戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
 精神は、操作の対象物ではない。生命は、誰かの持ち駒ではない。
 海は、基地に押しつぶされてはならない。空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
 血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
 学問は、戦争の武器ではない。学問は、商売の道具ではない。学問は、権力の下僕ではない。
 生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず、思い上がった権力にくさびを打ちこまなくてはならない。」  
「自由と平和のための京大有志の会」

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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