清風 2016年2月

テーマ:清風 【住職】

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見るべきほどの事は 見つ

1185年、壇ノ浦の合戦において戦に敗れ、その死に際に残した平知盛(平清盛の四男、中納言)の辞世の言葉。
32歳であった。(『平家物語』巻第11より)


位・人身を極めた清盛を父として生まれたその男がこういう言葉を残していったことについて、当時としても、また『平家物語』の読者にも、時代を超え、自身のその生き様について考えさせていったに違いない一句だったと思われる。
さて、21世紀に生きる私どもの覚悟である。
「見るべきほどの事は見つ」、今ならどういうことを、この知盛の言葉から我々は想像できるだろうか。
世界一周の旅行でも想像することになるのだろうか。
それなら「空が青いということを知るために、世界を回る必要はない」という言葉もあったように思うが。
しかし今、この言葉を聞いて思い起こすことは、この「清風」でも最近号で紹介した83歳の男性の方の「長生きはめでたい事なのか」という題名で新聞に投書しておられた原稿である。
この方は「安楽死ができる社会を願う」という願いの表明であった。
この知盛の「見るべきほどの事は見つ」という言葉を聞くと、現代の日本は豊かさと長生きが可能になったけれども、生き方には重大な課題を積み残したままの社会になっているのではなかったか、ということのように思う。
その「重大な課題」を考える上で参考になるのは、この「見るべきほどの事は見つ」という覚悟ではないか。
つまり、この実人生を生きるとは結局、昔も今も、本当に死んで往ける道を見つけるということではないか。
そうでなければ、成功しても失敗しても、結局最後には悔し紛れの死が待っているということになるのであろう。
これも最近号で紹介している水木しげるさん(漫画家、昨年93歳で亡くなった)が「あなたにとって幸せとは何ですか」との問いに「呼吸の出来ることです」と答えられたという事実こそ、一つの覚悟を示されているのでは、と思うのである。
「死んで往ける道は、そのまま生きてゆく道」ということなのだから。

 

「和讃」に聞く 2016年2月

テーマ:[和讃」に聞く



智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かむらぬものはなし 真実明に帰命せよ

<意訳>
智慧の光明の徳は無限であって、有限のすべての人間に光明を蒙らせる。
真実明の仏に帰順せよ。
        (意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

< 註 >
智慧
智は、あれはあれ、これはこれと分別して、思い計らうによりて、
思惟に名づく。慧はこの思いの定まりて、ともかくも働かぬによりて、不動に名づく。不動三昧なり。
   
有量
有量は世間にあることは、みな量りあるによりて有量という。
仏法はきわほとりなきによりて無量というなり。

真実明
真というは偽り諂わぬを真という。
実というは必ずものの実となるをいうなり。

ここに載せた註は、親鸞聖人が自ら和讃の語句の左側に添えられたもので、「左訓(さくん)」ともいう。


この和讃の中心の一句は、「必ず実となる」との真実明の註に記された言葉です。
人生を語る言葉として、「花」と「実」という言葉がよく使われます。
例えば「あの人の人生は何度か花は咲いたが、終に実がならなかった」というように。
誰しも、成功というかいい目に会うというか、人生の節々でフット・ライトを浴びることはあるかもしれませんが、しかしその人の内面では「人生を顧みて、必ず実となった、実った人生でした」とは、なかなか頷けません。
それが、この和讃で有量(有限)と表現された所以ともいえましょう。
註に、有量は「世間にあることはみな量りあるによりて有量という」とあるように、世間では量りあるから、自己についても量りある有量の存在としてしか受け取れなくなっているのでしょう。
しかし仏法は「きわほとりなきによりて無量(無限)というなり」と記されているわけです。
仏法の人間観は、いのちをいただいている現実からすれば、人間(私)は永遠の今を生きる無限の存在であるとされるのです。
2011年に勤まった「親鸞聖人750回御遠忌」のテーマは「今、いのちがあなたを生きている」というものでした。
このテーマは、限りあるいのちがそのままに「永遠の今」という内容を持っているというメッセージだったと思うのですが。

お庫裡から 2016年2月

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「人間はずっと幸せになるための準備をして幸せを生きたことがない」(パスカル)

孫の開が小学校に上がった夏休みから、お手伝いということで廊下を一緒に拭き始めました。
最初は渡り廊下だけ(幅1間、長さ6間強)。
保育園児の誓くんも一緒で、廊下を拭いているのか雑巾で遊んでいるのか…。
ともかく夏休みが終わるまで続いたので、「ご褒美に何がいい?」と聞くと「ラーメン」と2人が言うので、私は張り切って駅前のホテルの中華料理店へ連れて行きました。
あれから6年の月日が流れ、開くんは中学生。
お手伝いの廊下拭きも、夏休み、冬休み、春休み、メンバーも5人に増え(開くん、誓くん、在ちゃん、おじいちゃん、私)、家中の廊下を拭くようになりました。
ご褒美のラーメンは変わりませんが、どうやらホテルの中華は孫の口に合わなかったようで、「ラーメンは、何と言っても〇〇亭(チェーン店)だね」と言う孫のお薦めの〇〇亭へ、毎回5人で出かけます。
冬休みが終わった連休の一日、5人揃って出かけました。
年に3回しか来ない私たちが、何を頼もうかマゴマゴしているのに、開くんは慣れたもの。
ウェイターさんに「ラーメンの小には一味抜きで」なんて、常連さんの様です。
熱々のラーメンが各々の前に運ばれてきました。
「ハフ」「ハフ」とラーメンをすする3人の孫を見ていたら、私は何という幸せをいただいているんだろうと、ふっと目頭が熱くなりました。
7人の家族が一緒に暮らせば、表立つようなことはなくとも、些細なことで行き違ったり、腹を立てたり。
それらは、私が幸せを生きる時の微妙な隠し味。
隠し味があるからこそ、幸せの味が濃く旨くなるようです。

今月の掲示板 2016年2月

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  貧しい人とは、物やお金を持っていない人ではなくて
  決して満足しないひとだ。
  (ホセ・ムヒカ ウルグアイ元大統領)

  発展とは、幸福を阻むものではなく
  人類の幸福のためにあるべきものです。
  愛情、人間関係、子どもを育てること、友だちを持つこと、
  そして最低の物を持つこと、
  こうしたことのために発展はあるべきなのです。
  (ホセ・ムヒカ ウルグアイ元大統領)

   始まる  浅田正作
  己の地獄 発見
  そこから仏法が始まる
  この地獄、深くて底なし
  ここから真の人生が始まる

   つぶやき 浅田正作
  さびしいって―
  そうだろうよ
  如来さまに背中むけてるからさ
  それが悲しいって―
  ウン、それでいいんだ

  あなたにとって幸せとは何ですか
   呼吸のできることです  水木しげる

   ヘボ人生 浅田正作
  解説つきの将棋名人戦も面白いが
  私の人生は
  一寸先のよめぬ興味津々のヘボ人生
  解説くださるのは如来さま

   当たり前が 浅田正作
  当たり前が 拝める
  当たり前が 当たり前でなかったと
  当たり前が拝めるとき
  どうにも始末のつかん
  わが身からひまもらえる

   仏さま 浅田正作
  なにもかも
  これでよかった
  行き詰まりも
  不平不満も
  私の心の目を
  開かせてくださる仏さま

  死ぬ、ということが
  一人称になったときには、
  必ず、生きることも
  自分の問題として迫ってくる
  死ぬことと生きることは別々じゃない 藤井美和

本堂に座って 2016年2月

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今月も先月に引き続き、三谷宏治さんの本『お手伝い至上主義でいこう!』から、子どもたちに「与えたいもの-貧乏(貧困という状態のことではありません)」について書かれている部分を引用させていただきます。

<貧乏は「意欲」を高める>
ヒトが自ら進んで何かをやろうとすることが「意欲」であり、学習意欲や購買意欲、仕事への意欲が、よく話題となります。
現代における日本人の最大の問題を挙げるとすれば、それは少子化でも高齢化でもなく、この意欲の減退でしょう。
恐ろしいのは、日本人の場合、意欲はなくとも勤勉なので、定常的な仕事はちゃんと効率的に回り続けるということです。
しかし、意欲がなくては、より良くしていこう、という動きになりません。
それでは、これからの時代を生きていくことはできません。
高い意欲を持って、自分の独自の道を切り拓いて行かなくてはいけないのです。
根源的な意欲は、やはり制約の中から生まれます。その一つが貧乏=お金が少ない、なのです。
お金は少ないからこそ、それをどう使うか考えますし、使途が自由だからこそ、自分で選んで決めた、という「自己決定感」が高まります。
そしてそれこそが、根源的な意欲につながっていくのです。
貧乏は、お金の価値を伝えるとともに、子どもたちの「意欲」を育てていくのに役立つのです。

<貧乏は、「工夫」を生む>
95年、灼熱のナイジェリア北部で「電気を使わない冷蔵庫」が生まれました。
電気も氷も使わずに、中のものを外気より14℃も下げられる画期的な発明でした。
しかも価格は2ドル足らず。
材料は粘土と砂と布で、冷やすのに必要なのは水だけ、というものです。
電気もない村々の人たちの生活を、なんとか良くしたい。
でも、資源もお金も何もない。あるのはただ太陽の光と土だけ。
ここに、どうやったら「安価な食料保存システム」を導入できるのか…。
ないない尽くしのナイジェリア北部で、圧倒的に制約のある環境が生んだ、大発明でした。
そう、貧乏(=足りない状態)こそが「工夫」を生むのです。
足りないからこそ、それをどう効率的に使うか、必死になるのです。

<貧乏で「計画性」を持たせる>
小学生のうち半分の子どもたちは、「月いくら」などではなく「必要に応じて」お小遣いをもらっています。
かつ、月決めの子どもでも、その半分は「ほしいものがあるとき」に臨時のお小遣いをもらっています。
これでは「計画性」が育ちません。
子どもに計画性を持たせたいと思うのであれば、お小遣いを月決めにし、少なめにするのが一番です。
長めの時間の中で、ほしいものをどう手に入れるのか、もしくは日々の支出をどう切り詰めていくのか、という計画性が育ちます。
これはお小遣いに限りません。
随時の指示・対応でなく、期間を区切ること。
それもなるべく長めに区切ることで、子どもたちを計画的行動に導くことができます。

<貧乏な子どもはどんどん伸びていく>
今の子どもたちにとって、自分の自由になるお金が多すぎます。
だから、優先順位付けやトレードオフ(両立しない2つから、どちらかを選ぶこと)を学びません(学べません)。
お小遣いが少なければ、当然、考えます。
自分にとっては何が大事で、何がそうではないか。
もしくは、他のことで代用できないか、遊び自体を作れないか、という工夫や創造も生まれます。
ありあまるお小遣いの中では、決して意欲も工夫も創造性も、そして計画性も生まれません。
貧乏なところからスタートさせましょう。そして、徐々に任せる期間を長くしていきましょう。
ここでも子どもたちは、自分で決める感覚(自己決定感)を持ってどんどん進んでいくでしょう。
(『お手伝い至上主義でいこう!』三谷宏治 著より抜粋して引用しました。)

足りないからこそ、意欲が生まれ工夫も計画もでき、さらに成長していける…確かにそうだなぁと思いつつ、自分も出来ていないことだけに耳の痛い指摘です。

今日も快晴!?2016年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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秋以降お寺の行事が立て続き、そのまま年末年始を迎え、しばらく慌ただしくて本が読めなかったのですが、久しぶりに手にした夜回り先生こと水谷修さんの「子育てのツボ」が大ヒットでした。
書かれていた色々な言葉が心に響いたので、子どもたちにも「ねえねえ、お母さんこんなことを思いながら子育てしてきたつもりなんだけど」と、子どもたちにその本を読み聞かせてみました。
子どもたちの非行防止や薬物乱用防止のために「夜回り」と呼ばれる深夜パトロールを続ける水谷さんですが、20万人を超える「夜眠れない子どもたち」の相談に乗る中で、家庭の子育ての大切さ、学校での子どもたちへのふれあいの大切さを切実に実感されたそうです。
「子どもたちが幼い頃、小学校、中学校、高校生の頃にきちんと子育てをされていたらこんなことにはなっていなかったのではないか」ということで、水谷さんは、子育ての段階毎に、スキンシップ、自然に触れる、一日30回は褒める、子どものテンポに合わせる等、「こんなことを大切にして欲しい」ということを書いておられます。
「絵本」の章では、「お母さんは家事や仕事が忙しいとき、子どもがお気に入りのビデオやテレビ番組を一人で見せていませんか?
でも、こんな危険なことはありません。
見ている子どもは一方的に伝わってくる言葉や映像を受け入れているだけです。
テレビやビデオは完璧な道具です。全てが完成していますから、そこに子どもが考える必要はありません。
実は、これが子どもたちから想像力を奪っていきます」と、我が意を得たような一文があったので「ほら!だからお母さんはテレビは付けないようにしてきたんだよ~!」と言うと、次男が「でもぼく、仮面ライダーとか見たかったな」とぽつりとつぶやきました。
はっとしました。
私は私なりの信念を持って「テレビよりも絵本を」と、子どもたちに与えてきたつもりですが、次男は子ども園の時期から友達も多く、周りの男の子達が当たり前のように〇〇レンジャーや戦隊ヒーロー物の番組を見て、真似て遊ぶのを見ていました。
大人しい長男よりもそういったものに興味を持ち、見たそうにしていたのを知りながら、私なりの信念と正義の元に彼の希望の全て却下してきたのでした。
「そっか、誓くんはウルトラマンとか〇〇レンジャーとか見たかったんだよね」「うん」
「ごめんね、お母さん誓くんがテレビの真似して戦いとかパンチとかキックとか乱暴なことするのが嫌で、絶対見せたくなかったんだ」
「うん」「でも、見たかったよね?」「まあね」「・・・ごめんね」「別に良いけど」。
そうか、私はずっと次男に詫びたかったのだと、この本を読んで改めて気づきました。
私は私なりに信念を持って子育てやってきたし、この先何人子どもが産まれても同じようにテレビを消して絵本を読むと思いますが、子どもは一人一人別の人格を持っています。
兄には良くても、弟には合わないことだってあったはずです。
「間違ったときは、潔く子どもに謝る」これも、本の中にあった言葉です。
次男に、「ごめんね」を言うきっかけをもらえたんだと思いました。
子どもを一人の人間として「きちんと育てる」ということは、本当に責任の重い、一生掛けて向き合う大変な仕事だと改めて思いました。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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