「和讃」に聞く 2016年3月

テーマ:[和讃」に聞く



智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かむらぬものはなし 真実明に帰命せよ

<意訳>
智慧の光明の徳は無限であって、有限のすべての人間に光明を蒙らせる。
真実明の仏に帰順せよ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)を参考にした。)

「智慧の光明」とあるが、この「智慧」は仏さんの智慧を表す言葉で、人間の知恵は「人間はその知恵ゆえにまこと深い闇を生きている」(高 史明師)であって、私の知恵は闇を抱えた知恵だと照らし出すハタラキ、それが仏さんの智慧なのです。
ですから、念仏の智慧の「ハタラキ」とは「念仏することをもって我々人間の問題を解決するのではなく、念仏において我々の問題が一切解決されているのである」(安田理深)と教えられている如く、私の知恵は私以外の一切のもの・ことを、つまり自分の身も周囲の人(家族)も出来事もすべて「私の都合のための道具」にしていく、その根性(立場・判断の根拠)を照らし出す智慧、つまり鏡であると。
「念仏することをもって我々人間の問題を解決するのではなく」、つまり念仏であろうが神であろうが(親も子どもも)私の前の存在は、「我々人間(私)の問題を解決する手段とするか、(私の)問題解決のために排除する(殺すことも含めて)、そういう(道具の様な)存在に過ぎない、と。
「念仏において、我々の問題が一切解決されている」と何故言えるのか。まず、この問いの前に立たされているという気づきから始まるのであると、念仏(仏教)は私に呼びかけている。
「念仏(仏教・仏の教え)とは、自己の発見である」とも言われている様に、自分、自分と思っていたが、自我(エゴ)を自己としているという気づきがその始点であり、その気づきが、また恐ろしく私にとって困難なことなのである。すでにその困難さを、経典には「五劫があいだ思惟し、永劫があいだ修行し」と記されてもいるくらいだ。

お庫裡から 2016年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

syukoji_09090902.jpg

寒さが厳しくなって、ズボンをはくようになりました。
「あれ、おかしいなー」「おかしいなー」
久しぶりにはくズボン。どれも裾を踏むのです。
開くんは、見るたびに大きくなります。
「開くん、また背が伸びた?」「イヤ、前のままです」開くんは中学生、伸び盛りで大きくなっていくのはわかります。
最近、娘と並ぶ時、「あれ、この娘、こんなに背丈があったかしら」と思っていました。
ズボンで真実判明。
私の背が縮んでいたのです。ガッカリ。

奥へ物を取りに行こうとしたら、電話が鳴りました。
あわてて戻ろうとしたら、くつ下が滑って、コッテーンと見事に転倒。
暫くは、何が起こったのか判断がつかぬまま、天井とにらめっこ。
電話は切れました。
ようやく起き上がって痛むところを点検。
医者に行くほどのことはないと判断したものの頭を打っているので、夜眠る時、さすがの私も「もしかしたら、明日の朝は目覚めないかもしれない」と覚悟しました。
これまでの私の人生、本当に勿体なく有り難い歩みをさせていただきましたと合掌したら、安心が広がりました。

老人になっていくのに、なかなか老人の自覚が起こってこない私なので、身の方が自覚を促すべく、トラブルを起こしてくれます。
痛いのは嫌なので、気を付けようとは思っていますが、その口の先で「おばあちゃん、こんなことできる?」という在ちゃんに「簡単!やれるよ」と真似て足組をしたら、又々転んで背中を打つという不様。
「お母さん、在ちゃんと張り合わない。お母さん、若くないんだから」と娘からのきつーいお達し。 
シュン。

今月の掲示板 2016年3月

テーマ:今月の掲示板

syukoji_09090903.jpg

    自分に だまされるな

  民主主義だって間違える事がある
  だから私たちは勉強しなくてはいけないのだ。

  自分たち側だけの正義をあまり主張すると
  悲劇が起きかねない。

  善玉、悪玉的発想をするということは、
  もうすでに社会科学的な発想をしないということです。
  善玉、悪玉的な発想を克服すると、かなり自由な発想ができます。
                (以上「社会の法則と民主主義」板倉聖宣著より)
  いくら自分が偉くとも
  とうてい意の如くなるものではない

  積極的、積極的といって、近頃、大分流行るが
  あれは、大いなる欠点を持っている。
  いつ迄、積極的にやり通したって
  満足という域とか完全という境に
  いけるもんじゃない。

  凡て、人間の研究というものは
  自己を研究するのである。
  天地といひ、山川といひ
  月日といひ、星辰といふも
  皆、自己の異名に過ぎぬ。
  自己を措いて他に研究すべき事項は
  誰人にも見出し得ぬ訳だ。

  もし人間が、自己以外に飛び出すことができたら
  飛び出す途端に、自己はなくなってしまう。
  しかも、自己の研究は、誰もしてくれるものがない。
         (以上、「吾輩は猫である」夏目漱石著より)

  子とも(人間)は、誰か(信頼の対象・受けとめ手)と一緒のとき、
  一人(自在感・自立感・自由感)になれる。

 

本堂に座って 2016年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

syukoji_09090904.jpg

今月も先月に引き続き、三谷宏治さんの本『お手伝い至上主義でいこう!』から、子どもたちに「与えたいもの-ヒマ(自由な時間と裁量)」について書かれている部分を引用させていただきます。

<ヒマが、「発想」を生む
出来合いのおもちゃ(ゲーム等)があまりなくて、時間があって、仲間がいるから子どもたちは自分で遊びを創り出す。
強制など必要ありません。
でもその条件(ヒマや貧乏や仲間)を創れるのは、親しかいないのです。
ヒトが最大限の創造性を発揮し、熱意を持つのはまさに遊びの領域においてでしょう。
それがいわゆる仕事であっても勉強であっても同じです。
逆に言えば、子ども時代の遊びが、将来への訓練としていかに重要かということでもあります。
そして子どもたちが存分に「遊ぶ」ための条件が、ヒマ(自由な時間)と貧乏(制約)なのです。
<ヒマが、「自律」を促す>
休み前になると娘たちは、あたふたと動き出します。
友だちに電話したり、親戚に電話したり、手帳を確認したり。
放っておくと週末、あまりにヒマになるからです。
まあ三人三様ではありますが、子どもたちも親には期待していなくて、自分の遊び先を自分で開拓してきます。
次女は言います。
「ちっちゃいとき、毎日どうやってヒマをつぶすか必死だった。」
親は頼りになりません。
自分で遊びを考えるしかないのです。
ヒマな週末、ヒマな放課後。
そこから「自律的行動」が始まります。
<でも、子どもたちは忙しい>
小学生のなんと4人に一人は、習いごとと塾に週4日以上通っているのです。
そして家にいるとき、子どもたちは「テレビ」「ゲーム」「マンガ」でその貴重な自由時間をつぶしてしまっています。
いや、移動などのちょっとの隙間時間すら「携帯電話」が奪っていきます。
今の子どもたちに、真に自由(=ヒマ)な時間は少ないのです。
一日の予定は、ほぼ親(と学校)によって埋められ、その間の時間に必死で、テレビを見、ゲームをし、携帯をいじります。
まるでそれがストレス発散だとでもいうように。
子どもを塾に(安易には)行かせない、習いごとは一つだけに制限する。
それだけで、子どもたちには自由な時間がいっぱいできます。
小学生なら友だちと外で遊ぶのが一番でしょう。
でもいつもはムリかもしれません。
相手もあれば天気もあります。
家の中で過ごすことも少なからずあるでしょう。
そこに待ち受けているのが、テレビとゲームです。
これを制限しない限りヒマはあっという間に食いつぶされてしまいます。
テレビもゲームもパソコンも、あまりに刺激が強いので、制限がなければ絶対取り込まれてしまいます。
これこそ絶好の「トレードオフ」や「取捨選択」の練習の機会と思って子どもに負けないよう、頑張りましょう。
<ヒマを楽しくする、ちょっとした工夫>
お手伝いや貧乏と違って、ヒマを楽しくするための工夫など、特にはいらないのでしょう。
子どもにとって、自由な時間とはそもそも楽しいもの。
この時間をムダに過ごしたくないと思えば、何かを自分から始めるでしょうし、ムダでもよいと思えばのんびり過ごすのでしょう。
次女が中学のとき、あまりにマイペースなので、聞いたことがあります。
休みの日にもっと何かしないの、と。
そうしたら即答されました。
「お休みは、休むものでしょ。」
そうです。その通り。もう言いません、お任せします、と即時撤退しました。
ヒマな時間は作り出すまでが親の仕事。
あとは邪魔せず、放っておきましょう。
チャレンジし続ける力は、自分を見つめ、他人を見つめる膨大な時間の中から生まれるものです。
ヒマを楽しむことで、人生に思いっきり悩むことで、子どもたちは大人への階梯(きざはし)を登っていくのです。
ヒマな時間を楽しみ、悩みながら発想と自律性を得た子どもたちは、その後の人生で悩むことが減るのです。
(『お手伝い至上主義でいこう!』三谷宏治 著より抜粋して引用しました。)

ヒマを与えられるのは親だけ…確かにそうですが、一方でヒマそうにしている姿を見ると一言掛けずにいられない……何よりも親の覚悟が必要な様です(汗)。
  

今日も快晴!?2016年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
syukoji_09090905.jpg

鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画「小さき声のカノン~選択する人々」を観に行きました。
3.11の震災と、その後の原発事故を受けて、鎌仲監督の中で「子どもたちを放射能による被爆から守りたい」という願いが切実なものとなっていったそうです。
原発事故によって環境放出された放射能は、セシウム137だけをみても広島原発の168、5個分だそうです。
映画は、福島県二本松市にある浄土真宗のお寺「真行寺」の、子ども4人を抱えて「この地で生きる」と決めた佐々木さん一家の日常から始まります。
境内で運営している幼稚園の子どもたちを被爆から守るために、住職の道範さん自ら境内の除染を行い、食品の放射能測定を行います。
坊守(住職の妻)のるりさんは、子どもたちの内部被曝を避けるために安全な食材を求め、お寺に全国から支援の野菜が届きます。
一方、日本から遠く離れたベラルーシでは、チェルノブイリ原発事故後に子どもの甲状腺ガンが多発し、免疫機能の低下など、先天性の異常も増えたそうです。
そのベラルーシでは、「年間1ミリシーベルト以上被爆する地域に住むべきでは無い」という考え方を明確にしています。
しかし日本では、「20ミリシーベルト以下なら健康に大きな影響はない」と政府が発言し、汚染された地域に人々が住み続けているそうです。
上映会終了後の鎌仲監督のお話もショッキングな内容でした。
「被爆を恐れて自主避難しても何の補償もないが、帰還すれば90万円の手当が国からもらえる」、「福島では、原発事故後に甲状腺ガンの人が103人見つかっている。
原発事故前は0人」、「BBCテレビでは、原発事故後に東京のガン発症率が61倍になったと報道されているが、日本国内では一切報道されていない。
日本の報道レベルは北朝鮮並み」、「都内では、白内障が10倍に増えている。放射能は粘膜に付く」、「除染は被害を拡大するのみで、本当は拡散しないように放射能を閉じ込めないといけない。
除染によって、5兆円のお金がゼネコンに流れている」等々…。臭い物には蓋をして、忘れるのを待つ。
本当に大事なことは一切報道されない。
一体この日本という国は、政府はどういうつもりなのかと憤りを感じると共に、震災直後に強く感じた「何か出来ることは無いだろうか?」という気持ちがまた大きくなりました。
 具体的に「子どもを守る」手段の一つとして「保養」があります。
放射能の汚染の無い地域で一定期間過ごすと、内部被曝の数値が2分の1以下に下がるそうです。
現実を知れば、自分たちの力がいかに無力で微々たるものかと泣きたくなりますが、まず具体的に動かなければそれこそ何も変わりません。
小さな力は1かもしれないけれど0ではないと思うのです。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

ホームページ

このブログの読者

読者になる
読者数:2人