清風 2016年6月

テーマ:清風 【住職】

syukoji_09090901.jpg

宗教を求むべし。宗教は求むるところなし。

上記に挙げた語句の前の文は以下の通り。
パンの為、職責の為、人道の為、国家の為、富国強兵の為に、功名栄華
の為に宗教あるにはあらざるなり。人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり。
(「御進講覚書」『清沢満之全集』7巻 P188 岩波書店刊)


最後の言葉「宗教を求むべし。宗教は求むる所なし。」、ここに清沢先生が、そして親鸞聖人が師・法然上人との出遇いにおいて、いただかれた「唯、念仏」の一句が語られていると言える。
「宗教を求むべし」とは、「唯・ただ」(「唯」は、ただこのことひとつという。
ふたつならぶをきらうことばなり。
(『唯信鈔文意』親鸞著))と記されてあるように、「このことひとつ」と選ぶ(はっきり理解する)ことである。
我々現代人は、このあたりがはっきりしないのであろう。
 
宗教というと、清沢先生が挙げられているように、「パン」から始まって「功名栄華」と言われている物・事を獲得するための手段であると了解している人が多いのではなかろうか。
わかりやすく言えば、私の(目の前にある)欲望を充足する為の小間使い役が宗教(信仰、つまり、諸々の神から観音・狐・狸まで拝む)と言われているといえる。
だから清沢先生は「宗教を求むべし。宗教は求むる所なし」と再度、宗教とは何を指すのかを確かめてくださっている。
「人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり」と。
我々は、それこそ「あれこれの要求をその時々に持ち、その要求を実現する為に走り回っている」(『仏説無量寿経』三毒段に事細かに説かれている)。
しかし、「人心(私)の至奥より出づる至盛の要求」とは、と問いを持つ、そのことが現代では容易ではないようです。
(この問いの内容については、是非今月の「和讃に聞く」も読んでください)

「和讃」に聞く 2016年6月

テーマ:[和讃」に聞く



光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ
<意訳>
普遍の光明は、何ものにも碍げられることなく(無碍光)すべてのものに恵みを与え給う。不思議の弥陀をたのみとせよ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P17から引用した。)


人間はちっとも進化していない、いやむしろ退化しているということでしょうか。
この和讃では「一切の有碍にさわりなし」と言われています。
我々は進化し、万物の霊長であるといいながら、「将来に希望が持てない、お先真っ暗」と、それこそ老いも若きも壮年も、日暮らしが何となく重いというか、晴れ晴れとしない日常を過ごしているのではないでしょうか。
「長生きはめでたい事なのか」(昨年の「清風」12月号1面)と、自分が「生まれたことの意味を問う」という経験を、83歳にして初めて持たれた男性のように。

何故なら、現代は「間に合うか、間に合わないか」と効率と能率だけが要求され、そういう問いを持つことすらできません。
人間観の機械化が進み、いのちをいただいて生きるということはどういうことなのかを考える事、そのことのみが、むしろ「人間に生まれた」と言えることであるとは、わからなくなった時代なのでしょう(仏教では、いのちが濁っているという意味で、末法といいます)。
悩むこと、これは煩悩を自己として生きている「その錯覚に気づけ」という、いのちからの呼びかけであったのです。
我々の「いのちの母胎である自然」を、我々が利用する資源としか見ることができない、つまり謙虚さを持ち得ない、そういうあり方が問われていると言っては言い過ぎでしょうか。
「覚る」とは仏の智慧のハタラキ(法)に気づかされること、「信心を得る」とは真実主体を得ることであったのに、今やまったく人間からはわからない、つまり「難思議」と言うしかないという意味なのでしょう。
我々の持つ知の偏頗なあり方(未熟さ)に疑問すら発することができない事実、つまり人間の奢り、無明性・煩悩だけが欠け目なく備わった動物(人間の事実)を照らし出すハタラキ、それが仏の智を光明としてここで表現されているのは、人間の性(さが)の悲しい事実を指し示すことではないかと思われるのですが。

 

お庫裡から 2016年6月

テーマ:お庫裡から 【坊守】

syukoji_09090902.jpg

5月3日、待ちに待った4人目の孫(三女・有子の初子、3248gの女の子)が誕生しました。
赤ん坊の泣き声が家の中で聞こえるのは、8年ぶりのことです。
たった1つの、この小さないのちの存在が、家の中を甘やかな、和やかな空間にしてくれます。
名前は、のの葉。
何ともかわいい名前が付きました。
「のの」は、ののさま(仏さま=阿弥陀如来)の、ののから。
「葉」は、青葉・若葉の美しい季節に生まれたので。
仏さまの願いに包まれていることのわかる人に育って欲しいと、両親の願いがかかっています。

 ほとけさま 作詞:山田 静 作曲:小松耕輔
1.のーんのののさま 仏さま
  私の好きな母さまの
  お胸のように やんわりと
  抱かれています のの葉ちゃん

2.のーんのののさま 仏さま
  私の好きな父さまの
  お手々のように しっかりと
  抱かれています のの葉ちゃん

3.のーんのののさま 仏さま
  みあかし上げて拝むとき
  私の姿を照らされて
  歩んで行きます のの葉ちゃん

 山田 静作詞の  の部分をこのように変えて、ののちゃんの子守歌です。
この歌を歌うと、まだしっかり見えない目を見開いて、耳を傾けているような様子です。

 誕生から約1ヶ月、のの葉ちゃんと呼びかけるのに、こちらも慣れてきました。
赤ちゃんは二万回名前を呼ばれて、ようやく自分の名前がわかるようになると、東井義雄先生の本で読んだ記憶があります。
のの葉ちゃんがこれからどんな娘に育っていくのか(いくつまで見届けられるのかと思いつつ)楽しみです。

今月の掲示板 2016年6月

テーマ:今月の掲示板

syukoji_09090903.jpg

  身体は、拝借もの
  私の所有物ではない

  思い通りになる人生も
  思い通りにならぬ人生も
  どちらも
  私の人生である

  人間には二種類しかない
  背筋がぴんとしている人
  背筋が通っていない人 (フランクル)

  人生は楽しいもの
  けれど
  苦しいことや悲しいこと
  心を悩ますことも
  又、たくさんあります
  人は、そのような様々なことを体験しながら
  ほんとうの<人間>になるものだと思います。
  ひとの心の痛みのわかる<人間>に (丘 修二)

  そこを動くな
  そこを深く掘れ
  油田に当たれば
  自ずからふき出る

  私にとって真理であるような
  真理を発見し
  私がそのために生き
  そして死にたいと思うような
  イテン(理念)を発見することが
  必要だ (キルケゴール)

  近代人は、あまりにも多くの欲望を持っているため
  本当に欲しいものを知っていると思っている
  そのことが問題だ (フロムに倣いて)

  私は、手に入れたいと予想されているものを
  欲しているにすぎない
  手に入れると、そう幸せではない
  本当に欲しているものは何か (フロムに倣いて)

本堂に座って 2016年6月

テーマ:本堂に座って 【若院】

syukoji_09090904.jpg

最近流行っている「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」という本を続けて読みました。
この2冊は、アルフレッド・アドラー(1870-1937)が創設した「アドラー心理学」を、劣等感に悩む「青年」とアドラーの言葉を説く「哲人」が対話を進めていく形で読み解いていく…という書かれ方をしています。
アドラー心理学については、この本が評判になっているだけでなく、勉強会が開かれていたり、NHK(教育テレビ)で取り上げられたりと、関心が高まっている様なのですが、読み進めていくと「アドラーは著述活動に関心を示さず、対話を通じて気づきを与えていた」ことから始まって、仏教にも通じるところがあると感じる言葉がたくさん出てきました。
その中からいくつかを紹介させていただきます。

われわれは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。
アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」とまで断言しているのです。
個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどというものは存在しません。どんな種類の悩みであれ、そこにはかならず他者の影が介在しています。

わたしの身長は155センチメートルです。
かつてわたしは自分の身長について思い悩んでいました。
もし人並みの身長があれば、なにか変わるんじゃないか。
もっと楽しい人生が待っているのではないか。
そう思ってあるとき友人に相談したところ、彼は「くだらない」と一蹴したのです。
彼はこういいました。
「大きくなってどうする?お前には人をくつろがせる才能があるんだ」と。
たしかに155センチメートルという身長は一見すると劣等性に見えるでしょう。
しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。
わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較の中で生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。
われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。
それは自分の手で選択可能だということです。

対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。
競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。
常に自分と他者とを引き比べ、あの人には勝った、この人には負けた、と考えているのですから。
いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになるのです。
競争の怖ろしさはここです。
たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも競争のなかに身を置いている人は心の安まる暇がない。
他者を信じることができない。
社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。
しかし実際のところ、他者はそれほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?おそらく違うでしょう。
わたしの若い友人が少年時代、長いこと鏡に向かって髪を整えていたそうです。
すると彼は、祖母からこういわれました。
「お前の顔を気にしているのはお前だけだよ」と。
それ以来、彼は生きていくのが少しだけ楽になったといいます。

他者から承認されることは、たしかに嬉しいものでしょう。
しかし、承認されることが絶対に必要なのかというと、それは違います。
そもそも、どうして承認を求めるのでしょう?もっと端的にいえば、なぜ他者からほめられたいと思うのでしょう?適切な行動をとったら、ほめてもらえる。
不適切な行動をとったら、罰せられる。ほめてもらいたいという目的が先にあって、ごみを拾う。
そして誰からもほめてもらえなければ、憤慨するか、二度とこんなことはするまいと決心する。
明らかにおかしな話でしょう。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。
相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても,怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)
(来月もこれらの本から引用する予定です。

今日も快晴!?2016年6月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
syukoji_09090905.jpg

5月に中学校での授業参観&保護者学級「いじめ防止講演会」がありました。
講師は弁護士の間宮静香さんで、大変人気のある方だと聞き、また学校やいじめの問題についても関心があったので、楽しみに足を運びました。
講演は、具体例を織り交ぜながら非常に分りやすく、保護者の方の参加も多く、子どもと親と先生方が一緒になってこうした講演を聞くことが素晴らしいと思いました。
「いじめ」と聞いて、「やってはダメなこと」と言うのは誰もが分っていると思うのですが、では実際にどういう行為が「いじめ」に当たるのか。
喧嘩といじめの違いは何か?と聞かれたら、きちんと答えられる方は少ないのではないかと思います。
間宮さんが担当された事例でも、「毎放課に、前の席の子(Aくん)が後ろの席の子(Bくん)の筆箱を取って逃げる。
AくんがBくんの机に落書きをする」という行為が「仲間同士の遊び」であるのか、「いじめ」であるのか、挙手をして聞いたところ、意見が分かれました。
Bくんは、この一件の他にも色々あったそうですが、自殺をしているのだそうです。
クラス中の皆も先生も「AくんとBくんは遊んでいる」と思っていたそうで、「いじめは見えなくなるんです」という間宮先生の言葉が印象に残りました。
いじめは、どちらか一方だけ傷つく。
喧嘩は、両方に止める権利があるetc・・・という判断基準も、(なるほど!)と納得出来ました。
また、こうした比喩も印象的でした。
心のコップの水が一杯になって溢れそうになると、子どもたちは自分を傷つけたり相手を傷つけたりする。
「いじめる子」の問題行動はSOSの裏返しであり、いじめている子どもの心も悲鳴をあげていて、コップの水が今にもあふれそうになっている状態である。
それなので、いじめられている子の孤立化を防ぐと共に、いじめている側にも寄り添い、声を掛け、話を聞き、コップの水が溜まらないようにしていかなければいけないそうです。
そして、「自分の気持ちを言葉にする練習」が大切になります。
昔も今も、いじめで使われるのは「うざい、きもい」という言葉ですが、これらは相手の人格全てを否定する言葉です。
「プリントを配る時、指を舐めるのが気持ち悪いから直してね」と伝えることが出来れば、その行為だけ直すことは出来ます。
「子どもは、親の伝え方を真似る」という言葉にもドキリとしました。
子どもたちに「うざい、きもい、むかつく」等の言葉は使っていませんが、自分の言葉や伝え方を点検してみようと思いました。
そうして、子どもたちは退席し、保護者だけを集めて引き続きお話がありました。
こちらでは、「自分の子どもがいじめている、または、いじめられていると疑われる場合」など、対処法のアドバイスがありました。
◎親が感情的にならない
◎学校側に、把握している事実を正確に伝える
◎親も不安なことを伝える
◎子どもと一緒に解決することを忘れない。子どもを主役にし、サポートする。
◎返事が欲しいことは、学校側に期限を伝える、等々。
何より大切なのは、子どものありのままの姿を認め、子どもの居場所を作ること。
自身も3人の子育て真っ最中の間宮さんの話は頷くことばかりでした。

プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

ホームページ

このブログの読者

読者になる
読者数:2人