「和讃」に聞く 2016年7月

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光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ
<意訳>
 普遍の光明は、何ものにも碍げられることなく(無碍光)すべてのものに恵みを与え給う。不思議の弥陀をたのみとせよ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P17から引用した。)


「和讃」に聞く・第12回(2016年5月号)で、阿弥陀仏の徳を12の光(譬え)で表現されていることを述べて、その中で重要な譬えが超日月光であると記しました。
これは、仏教が人類へのメッセージとして、自己の立ち位置に目覚めることが最大の利益であることを明らかにした、重要な点です。
例えば、道元禅師(禅宗の開山)は「仏道を習うというは、自己を習うなり」と言われています。
仏教に限らず、哲学の祖と言われるソクラテスもやはり「自己を知れ」と言っています。
仏教では「人身受け難し、今すでに受く」とも言います。
しかし、「自己を習う」とか「人身受け難し」とはふだんは言いません。
なぜでしょうか。もう分かったこと、当たり前のこととして済ませていけるからでしょう。
実は、それこそが大問題だというのです。

当たり前と済ませていれば、その生活姿勢は次のような事態になると、法然上人に「勝他・名聞・利養」という訓戒があります。
「勝他」というのは、文字通り「近くにいる他人には負けられない、ライバルを作る根性」のこと。
「名聞」というのは「有名になりたい、嫉む根性」。
「利養」とは「私だけいい目にあいたい、被害者意識から脱却できない」。
これが凡夫といわれる所以であり私の偽らざる相である、この3つの欲求に突き動かされているのが私の日ごろの暮らしである、と。
悩む、あるいは苦悩する、それは日常意識の下部に作動している(例えば、上記の3つの根性(煩悩)に依る)と見出したのが、仏教と言えます。

しかし、なぜ悩むのでしょう。
もっと言えば、なぜ悩めないのか、なぜ悩まされているのかと、問いを立て替えたのが仏教史上の先師(先輩)方であったわけです。
それが一面の最後に紹介した言葉「そこを、動くな。そこで、考えよ」であったのです。
そしてその時、不思議にも「有碍にさわりなし」という、自由にして自在なる世界が用意されているにもかかわらず、その世界を外部(比較の世界・自己の外)に求めていた自分を知る―それだけが、苦悩・悩むことが私に与えられている意味だったのです。

お庫裡から 2016年7月

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久しぶりに赤ちゃんに接する生活をして、気づかされることがいろいろありました。
のの葉ちゃんは、生後1ヶ月と1週間、我が家にいました。
まず、全身が脱皮し、1ヶ月経つと4000gにまでなりました。
のの葉ちゃんの身体は、ものすごい勢いで大きくなっています。
不思議です。
それを私たちは成長と言って喜びます。
生きている間、2度と生まれた時の大きさ3248gに戻ることはありません。
変化しているのは、赤ん坊だけではありませんでした。
私の身体も、確実に変化が起こっています。
その変化を我々の年令では、成長と言わず病気ととらえるので医院へ行きます。
診察が終わると医師は年令を見て「年相応だからねー」。
いわゆる加齢現象だと言われます。
自分は若いつもりですから、「イヤダー」と言いながら、医師の見立てが悪いのではないか、と疑ったりします。
赤ん坊の変化ほど激しくないので、ついつい見落としておりました。
いのちの実相は、変化するということでありました。
いのちは常に移ろって、同じところに留まっていなかったのです。
実体無き実体と言うのか、「これが私」と認識した時には、この私はもう先に変化している。
つかまえ切れない不思議な身をすでに私として頂戴しておりながら、それを私の思いでつかまえようとするので、人間は苦悩するようにできているのですね。
苦悩が縁となって、いのちの声を聴くということ、それを聞法といい、「仏法は、人間奪還の運動だ」と言われている中味ではないかと思うのです。

 

今月の掲示板 2016年7月

テーマ:今月の掲示板

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  自己とは他なし
  絶対無限の妙用に乗托して
  任運に法爾に
  この現前の境遇に落在せるもの
  即ち、これなり

  一色の映ずるも
  一香の薫ずるも
  決して色香そのものの原起力によるものにあらず

  宇宙萬有の千変万化は
  みなこれ
  一大不可思議の妙用に属す

  生のみが我らにあらず
  死もまた我らなり

  生前死後の
  意の如くならざるのみならず
  現前一念における心の起滅、
  また自在なるものにあらず
  我らは絶対的に他力の掌中にあるものなり

  請うなかれ求むるなかれ
  汝、何の不足かある
  もし、不足ありと思わば
  これ、汝の不信にあらずや

  外物を追うは貪欲の源なり
  他人に従うは瞋恚の源なり

  如来は汝がために必要なるものを賦与したるにあらずや
  もし、その賦与において不十分なるも
  汝は決してこれ以外に満足をうること
  あたわざるにあらずや

本堂に座って 2016年7月

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3年に1度行われる参議院議員選挙の投開票日が7月10日に決まりました。
経済、社会保障、安全保障・沖縄、エネルギー、憲法…それぞれに様々なことを考えながら選挙を迎えられていることと思います。

各政党・候補者の「公約」を見聞きし、テレビや新聞に目を通していても、「この政党のこの人なら!」といえる方を見つけるのは難しい…というのが正直なところです。
特に今回の選挙はこれまで以上に大事な意味を持つんじゃないか…という思いがあって、春頃から「憲法カフェ」(カフェ形式の気楽な雰囲気で、弁護士さんから憲法についてお話していただく会)に参加したり、選挙についてのお話(どう考え、どう動いたらいいのか)を聞きに出かけたりする中で、考え・判断するうえでの基本的な内容をいろいろと教えていただきました。
自分自身の振り返りという意味も込めつつ、ざっとまとめてみます。

 <憲法について(現行憲法と自民党改憲草案の比較を中心に)>
「日本国憲法の3大原則…国民主権・平和主義・基本的人権の尊重」に関連して
(現行 99条)
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
(草案102条)
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う、

(現行  9条)
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
国の交戦権は、これを認めない。
(草案  9条)
国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
(草案9条の2)
我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
国防軍は、…公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。

(現行 13条)
すべて国民は、個人として尊重される。…国民の権利については、公共の福祉に反しない限り…
(草案 13条)
全て国民は、人として尊重される。…国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り…

(緊急事態条項…要約)
内閣総理大臣が閣議で緊急事態を宣言。宣言後、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定でき、何人も国の指示に従わなければならず、衆議院は解散
されない。
緊急事態宣言・政令は事後に国会承認。
緊急事態が100日を超えるときは事前承認。
国会承認は衆議院が優先する。

 <選挙について>
 ・まず、選挙に関心を持ってください!「最善」な選択は今はまだ無いかもしれ
 ないけれど、「最悪」を避ける、「より良い」と思える投票をしましょう!
 ・(特に今回は)「2/3」を意識しましょう。「2/3」で政治が変わります。
 ・沖縄の問題も、地元議員の当選が大きく影響するので、合わせて考えましょう。

 イギリス国民投票の結果が「歴史の転換点」と言われますが、今回の参院選も後にそう言われる選挙になるかもしれません。
どちらが優勢だと、どう変わっていくのか…将来子どもたちから「なぜあの選挙で〇〇を勝たせたの?」と言われないように、しっかり考え、出来ることをして、選挙に臨みたいと思います。
(『嫌われる勇気』からの引用は来月といたします。ご了承ください。)

今日も快晴!?2016年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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3月から、絵本の読み聞かせ会&朝市の開催に合わせて月に1度、お寺の本堂で「憲法カフェ」を開催しています。
毎回弁護士さんを招いて、憲法、現在の政権の改憲案、選挙等々の話を聞かせてもらう内に、改めて日本国憲法が非常によく考えて作られたもので、これをきちんと守らなければ大変な事になってしまう、安易に改憲などすべきでないということがひしひしと伝わってきます。
人間は、権力を手にすると好き勝手なことをしてとんでもないことになってしまうので、日本国憲法は「国家権力も憲法に従うべきだ」と、政治家が好き勝手に出来ないよう枠組みを作っています。
平たく言えば、「内閣総理大臣も、憲法に従わなければいけない」と、憲法>国家権力ということが明記されているのです。
けれど、自民党の改憲案では、「私(総理大臣)が勝手に憲法を作るから、国民はその憲法に従いなさい」と、憲法<国家権力と、双方の力関係が逆転してしまっています。
その他、憲法13条「国民の権利は『公共の福祉』に反しない限り最大限に補償される」という部分が、自民党の改憲案では「『公益及び公の秩序』に反しない限り」となっています。
一見同じように思えますが、この二つは全く別物です。
「公共の福祉」は人権同士の権利の調整。
「公益」は公(国)にとって利益になること。
つまり、一番大切なのが「個人」であるのか「国」であるのか、全く逆になってしまうのです。
また憲法13条では、「個人として尊重される」という一文が、改憲案では「人として尊重される」になっています。
「個人」と「人」でどのような違いがあるのでしょうか。
「個人」とは、個性を持った人。
自分の意見を持ち、自由に行動&発言する権利がありますが、「人」とは生物学的な人。自民党の改憲案では、生きるための最低限の保障しかされない状態でも「人として尊重される」と言われかねません。
言葉を換えたからには、必ず何らかの意図が隠されています。
また、大きな自然災害などが起こると「緊急事態!」と国民の不安を煽って改憲などに踏み切ろうとしますが、これはとても危険なことで、地震など緊急事態に必要なのは、総理大臣に権力を集中させることではなく、事前の計画&準備&訓練であって、むしろ現場の市町村に権限を与えた方が良いそうです。
ドイツは先進的なワイマール憲法を持ちながら、緊急事態条項があったがためにナチスの独裁を生んでしまったそうです。
選挙で「どこに入れたら良いのか分らない」と白票を投じる人がいますが、これは「現政権への白紙委任状」と同じで、もし現政権への批判の気持ちを表現したいのであれば、政権交代が可能な第2党に投票する方が効果的とのことでした。
「どうせ何も変わらない」と選挙に足を運ばないのは、「私は戦争法案に従って戦場にゆきます」と言っているのと同じです。
とにかく選挙には足を運ばなければ始まりません。
日本国憲法と浄土真宗の教えには、どこか通じるものがあるように思えます。
「一人一人が自分の人生の主人公である」という仏さまのメッセージは、「国民主権」「基本的人権の尊重」に通じ、「兵戈無用(仏さまの教えが広く行き渡る国においては、兵隊も武器も必要無い)」は、憲法9条の「戦争放棄」、「平和主義」に繋がるように思えます。

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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