清風 2016年6月

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天下和順 日月晴明

守綱寺鐘楼堂 文政5(1822)年修理棟札 裏書より
なお、経典では「日月清明(にちげつしょうみょう)」とある。
       
<この文の前後は次の通り>

仏の遊履したもうところの国、邑、丘、聚、化を蒙らざるはなし。
天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲(さいれい)起こらず。
国豊かに民安し。兵戈用いることなし(兵:兵隊 戈:武器)。

 

私たちに名号(仏の名である、南無阿弥陀仏)が聞こえてくる時、その時世界はまったく様相を一変する。
国も町も丘も村落も、まったく天下和順し、唯一の真実の道理(南無阿弥陀仏)のハタラク様を見る。
何もかも明らかに、真実の道理の様相が見えてくる。
自然は道理の如くハタラキ、風雨は吹くべき時に吹き、降るべき時に降ってくる(その道理に暗い人は、「想定外」などと言うこともあるが)。
私たちの恣意をはさむ余地はない。
この世界そのものが私たちに与えられている。
聖徳太子は「我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚かに非ず。」と言われている。
真実の道理がそのまま民の上に実現していることを「民安く」と言われる。
「兵戈用うることなし」は非暴力ということ。
戦争放棄という第9条は、1947年に日本の憲法に突然現れたのではなかった。
人類の歴史の長い願望があってのこと。
他ならぬこの日本において、時を得、場を得て、不思議にも表現されたとは言えまいか。
 
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。(『平家物語』)
註)守綱寺鐘楼堂は、慶安元(1648)年創建。
修理を示す3枚の棟札が、今回の修理によって見つかった。
第1次修理の延宝7(1679)年の札、第2次修理の宝永3(1706)年の札、そして上記裏書のある文政修理の札である。

「和讃」に聞く 2016年8月

テーマ:[和讃」に聞く



光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

和讃を冒頭に掲げていますが、今回はまず、南無阿弥陀仏について面白い視点からの表現を紹介しようと思います。

「南無阿弥陀仏」という言葉は、死ぬまでの長い年月、この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらないと思われるほどの、くりかえしの使用にたえる。それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ。
(註※)

どうでしょう。よく現代の状況をふまえた感想だとは思われませんか?言葉も消費される、とにかく全てのもの・ことを消費していく、それが進歩というか、近・現代の私たちが忙しさに追い立てられている原因ではないでしょうか。
そこで鶴見さんは「くりかえしの使用にたえる」言葉、消費されることのない(言葉としての)南無阿弥陀仏-六字の名号に注目されたのだと思います。
言葉、それは情報です。現代はその特徴を情報社会と定義しています。
明日になれば古くなり見捨てられていくもの、それが情報です。
いや、知った後から古くなっていくものが情報なのでしょう。
今や、通勤電車の中で新聞を読む人はほとんどいません。
スマホ・ケータイ派であるからです。
最新の情報を得ることが、現代を生きる人間の主たるしのぎとなっているから、とでも言えるでしょうか。
とすると、「この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらない」という指摘に注目したいと思います。
和讃もその「くりかえしの使用にたえる」南無阿弥陀仏の讃嘆にほかなりません。
親鸞その人こそ、法然上人に出会い、そして生涯を尽くして、その指摘の如く「ただ念仏」の世界を、それこそ「死ぬまでの長い年月」をこの言葉にかけ「他の言葉」はいらない生涯を送った人と言えるからです。
ここに金言「真理は単純である」を思わざるを得ません。(この項つづく)

註※)『神話的時間』鶴見俊輔著 58頁 1995年9月 熊本子どもの本の研究会刊
鶴見俊輔 ―
戦後の我が国にあって、一市民として、またリベラルな立場から、生涯現役として思想界に大きな影響を与えた。(1922~2015・7・20)
『鶴見俊輔集』全12巻(筑摩書房)他、著書多数。
(2016年7月21日記 一周忌の命日の翌日に。南無阿弥陀仏・合掌)

 

お庫裡から 2016年8月

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孫達の夏休みが始まりました。
「この夏も廊下ふき、やってくれるかな」と3人の孫に聞きました。
「ハイ、やります。」3人とも、優等生の返事。
「でもね」と長男孫の開くん。
「僕は朝練が入っているし、誓くんは部活やクルマづくりがあるから、朝は無理だよ。」
中学2年の開くんは、学校のロボット部に入っていて、体育系の部活のように、朝練というものがあるらしい。
6年の誓くんは何かの部活に入らねばならないらしく、ミニバスケをやっている。
3年の在ちゃん。
夕方は習いごとで忙しいらしい。
協議の結果、朝食後は在ちゃんと座敷の廊下、渡り廊下を拭く。
昼食後に開くん・誓くんと玄関から庫裡の廊下を拭く。
おじいちゃんは、時々参加。
成長した孫達、手早いものです。
今のところ、順調にこなせています。
でも、ふっと考えます。
こんなことがいつまでやれるのか、と。
孫の成長ばかりでなく、こちらの老化による体力の衰えの方を考えねばなりません。
そんなことを考えていたら、孫が「お夕事やろう」と呼びに来てくれました。
3人の孫が日替わり交代に導師を勤めてくれ、最後に合掌してみんなで十声「南無阿弥陀仏」を称えます。
仏前に座し、手を合わせて、孫と声を揃えてお念仏を申している今をいただいている。
何と尊い時間だ、この今は。
諸行無常、先にどう変わっていこうとも、その時はその時で考えたらいい。
取り越し苦労していては、今を生きない足の無い幽霊になってしまう。
「幽霊を見たことありますか」と聞かれた松任の松本梶丸先生の言葉が懐かしく思い出されます。

今月の掲示板 2016年8月

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  あなたは
  何をもって自己としていますか。

  人間のもつ知は
  ものを作り出す力を持っています。
  しかし、もっともっとで
  人間の知からは
  決して満足が生まれないのです。

  便利で快適を追求してきた人間は、
  進歩しているのだろうか。
  むしろ、退化しているのかもしれない。

  人間は、
  自分の心によって悩まされている。

  できること
  しなければならないこと
  やりたいこと
  この3点が1つになったとき
  満足のあるいのちを生きることができる

  命という字は
  口と令でできています。
  口はことば
  令もことば
  私のいのちは
  ことばによって生きている。

  仏教は
  仏の教えであるとともに
  それによって
  人間が仏に成る道である

  尊厳死ということばはあるが
  尊厳生ということばがないのが不思議です。
  生まれて、こうして生きている。
  それを尊厳(尊く厳か)と感じられない
  人間の悲しさよ

 

本堂に座って 2016年8月

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夏休みが始まりました。子どもたちにとっては、待ちに待った夏休みなんですが、親にとっては“たいへんな”夏休みがやって来た…というのが正直なところです。
何より気になってしまうのが「宿題」です。
「休みなんだからやりたいことをやればいい」と思いつつ、もう一方では「早く宿題をやらせなきゃ!」とも思って、本人よりもこちらの方がそわそわしてしまいます。
それも「子どもたちのため」という気持ちからなのですが、そんな「思い」を「課題の分離」という視点から読み解いてくださっている(対話形式の)文章を、『嫌われる勇気』から紹介します。

たとえば目の前に「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていきます。
子どもが勉強するのかしないのか。
あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。
本来これは「子どもの課題」であって、親の課題ではありません。
勉強することは子どもの課題です。
そこに対して親が勉強しなさいと命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。
これでは衝突を避けることはできないでしょう。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
分離して、他者の課題には踏み込まない。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと ― あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること ― によって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。

「どうやって「これは誰の課題なのか?」を見分けるのです?実際の話、子どもに勉強させることは親の責務だと思えますが。」

誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えてください。
もし子どもが「勉強しない」という選択をしたとき、その決断によってもたらされる結末 ― たとえば授業についていけなくなる、希望の学校に入れなくなるなど ― を最終的に引き受けなければならないのは、親ではありません。
間違いなく子どもです。
すなわち勉強は、子どもの課題なのです。

「いやいや、そんな事態にならないためにも、人生の先輩であり、保護者でもある親には「勉強しなさい」と諭す責任があるのでしょう。
これは子どものためを思ってのことであって、土足で踏み込む行為ではありません。
「勉強すること」は子どもの課題かもしれませんが、「子どもに勉強させること」は親の課題です。」

たしかに世の親たちは、頻繁に「あなたのためを思って」という言葉を使います。
しかし、親たちは明らかに自分の目的 ― それは世間体や見栄、支配欲かもしれません ― を満たすために動いています。
つまり、「あなたのため」ではなく「わたしのため」であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

「じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?」

ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。
放任とは、子どもがなにをしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。
そうではなく、子どもがなにをしているのかを知った上で、見守ること。
勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。
けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。
頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。
精一杯の援助はします。
しかし、その先にまでは踏み込めない。
ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。
本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。
自分を変えることができるのは、自分しかいません。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)
(来月もこの本から引用する予定です。)

今日も快晴!?2016年8月

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先月、お寺の読み聞かせ会で「てるくんはてるくん」という絵本を紹介させてもらいました。
この絵本は、発達障がいと診断されたてるくんが、運動会のリレーを通して幼稚園の子どもたちに受け入れられていく過程を描いたもので、岡崎にあるA幼稚園で実際にあった出来事を描いたものです。
てるくんは、みんなに合わせることが苦手で、自分が興味のあることにひたすら集中してしまいます。
運動会が近づいてきたある日のこと、クラス対抗リレーで勝ちたい子どもたちと、自分の順番になると必ず転んでしまうてるくんとの間で葛藤が生じます。
子どもたちは「てるくんがもうちょっとだけ早く走ってくれたら良いのに・・・」と言いながらも、誰一人「てるくんはリレーに出ないで欲しい」とは言いません。
何度も作戦会議を開き、てるくんが転んだ時に起こす係、一緒に走る係、落ちたバトンを拾う係と、クラスの皆でリレーに参加できるように一生懸命考えます。
皆とは少し違うお友達を排除するのではなく、そのまま受け入れる子どもたちの柔軟さや、それが「当たり前」になっているA幼稚園は本当に素敵だと思えました。
そして、実際にA幼稚園にお邪魔する機会がありました。
これが予想を遥かに上回る素敵な園でした。
園長先生が自ら園内を案内して下さったのですが、「園舎はなるべく自然素材を使っているんです」という言葉の通り、見えるところはほとんど木が使われていて、壁は漆喰、教室には薪ストーブ、制服もアトピーなどの子どもさんに配慮した素材で作られているそうです。
園庭は高低差のある地形をそのまま生かしてあって、土手が滑り台になっていたり、下の段は年小さん、上の段は年中・年長さんと、それぞれが「ここは自分たちの場所」と思える仕掛けになっています。
ヤギや羊やカメが出迎えてくれたり、そこここに遊び心を感じる園で、親も子も通ってくるだけで(さあ、今日は何して遊ぼうか?)とわくわくするのだと思います。
「遊び心」と、もう一つのキーワードは「ゆるさ」でしょうか?
「園の外は草取りがしてあるんだけど、園庭はそのままなんです。そうすると、バッタや色んな虫が来るし、季節も感じることが出来るでしょ?」と園長先生はニヤリ。
「躾けはしない」から、トイレのスリッパはあちこち向いているけど、「いずれ気付いてやれるようになります」とのこと。
「大人にとって都合の良い子ども」に躾けられるより、思う存分遊んで子ども時代をしっかり満喫して大人になった子どもたちは、自分のことが大好きで、ちょっとのことでは折れてしまわない人に育つのでしょう。
子どもたちが怪我をして帰ってきても、「A幼稚園に入れちゃったんだから仕方ないよね」と、ママ達もおおらかで、ほとんどクレームは来ないのだそうです。
今どきの社会の風潮に変に媚びない園の確固たる方針と、それを理解し協力する保護者の方達の揺るぎない信頼関係を感じました。
また、子ども達に混じって大勢のパパ達の姿があったのも驚きでした。
「半日保育の期間は、パパ達に自由に園に来てもらっているんです」とのこと。
空いているお部屋には自主活動や勉強会をするママ達の姿も多く、本当にオープンで開放的な園でした。
働いている職員の方達の表情も生き生きと輝いていて、卒園生の職員や保護者が多いのだそうです。
きっと、(またこの園に通いたい!)と思われるのでしょう。
「てるくん」の絵本は、こうした園の日々の活動から生まれたのだと思うと、さもありなんと思えるのでした。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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