清風 2016年9月

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実るほど こうべをたれる 稲穂かな


お盆が過ぎて、大変な暑さが続いています。
大容量の雨を伴った台風も近づき、9号が去ったら今度はもう10号の台風とか。甚大な被害の状況が伝えられてきています。
見事に黄金色に実った穂が、絵に描いたようにこうべを垂れています。
昨年収穫直前に、当地では雨台風で農作物の被害を相当受けたのですが、今年はそうならないように祈るばかりです。

さてみなさんは、冒頭に挙げたこの句からどんなことを想像されるでしょうか。
私がいつも言うていることになりますが、あらためて「あたりまえ」で済ませている日常のあり方について、私は「未熟な自分だなぁ」ということです。
この8月、10日間ほど3ヵ月の孫が来てくれました。
お腹がふくれれば笑う、おしめが濡れればぐずる、眠たければ泣く。
非常にわかりやすい日常の生活なのに、笑った、ぐずった、泣いたと、赤児の一挙一動に注目が集まります。
表と裏の無い、まだ言葉を介さない赤ちゃん。
こうべを垂れる必要もない赤ん坊です。
しかしこれが言葉を話すようになると、冒頭に掲げた俳句にあるように、「ありがとう」と「頭を下げる」という表現をもって、人としての成熟度が表現されるのでしょう。
つまり、「未熟な者」という自己認識が「成熟した(している)」という外からの評価につながるというのです。
「実った」事実が「こうべを垂れる」と表現されてきた。これは、私どもが日ごろ「当たり前」としてやり過ごしている鈍感さに気づいた先輩からの現代への警鐘なのだと思います。
すでに、次の如く詠まれてもいることでした。

いかばかり お手間をかけし 菊の花
(菊の花に寄せて、ここまでになるには私は沢山の方々から様々な配慮をいただいてきたのに、それに気付けないでいる私でした、と。)

 

「和讃」に聞く 2016年9月

テーマ:[和讃」に聞く



光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

さて、先月号のこの欄で紹介した鶴見俊輔の言葉を巡って、もう少し記すことにします。
それは、このような言葉でした。

「南無阿弥陀仏」という言葉は、死ぬまでの長い年月、この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらないと思われるほどの、くりかえしの使用にたえる。
それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ。

<「くりかえしの使用にたえる」言葉>
人間にとって、言葉というのは ―人は「人間」と言われているように― 何より大切な「人の間」、つまり私と他の人との間(関係)を開くツール・道具と言えます。
南無阿弥陀仏は道具であるというわけです。
さて一方、南無阿弥陀仏は「名号・名」と言われてきました。名とは名前です。
それは先ず仏(ぶつ・ほとけ)の名であると。
仏とは、一切衆生(生きとし生けるもの)を救いたいという願いを掲げた人を指す名です。
「一切衆生」といっても、それは当然、先ず人間を指すと言えるでしょう。何故なら、自己・自分・私といろいろに言われているのですが、もう少し具体的に申せば、今・ここに・生きてある私を指すと言えるからです
。私が入らない一切衆生と言っても、それは「そういう話」でしかないからです。
救われねばならぬ実存・現実存在としてある「私」であると見出された、南無阿弥陀仏こそが本当の私の名であり、あなたの本当の名でもあると。
ここが仏教の大変面白い考え方なのです。

その鍵になるのが、「それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ」と言われている、その「南無」の語のメッセージをどう了解していくのか、ということです。
ここに仏教史の中心課題があったのです。
今から、一つ世界を作ろうというわけではないのです。
すでに一つ世界に生きているのに、それを忘れてしまっていたと気づく、その世界が「光雲無碍如虚空」とここに現されているのです。

 

お庫裡から 2016年9月

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父が亡くなって、はや16年目の夏が巡ってきました。
「みんなで揃って、本山へ納骨に行こな」「行こな」と言っていた母は、弟が定年になった頃から痴呆が進み、納骨どころではなくなりました。
そして92歳の今は、施設のお世話になっています。
しょっちゅう会いには行けませんが、たまに施設を訪ねても、母はいつも目を閉じていて言葉を発せず、会話ができません。
こちらが話しかけた時、間のよく「あー」と声が出ると「あっお母さん、わかった、わかった」と私の話した内容が母に通じたと、こちらが一方的に喜ぶだけで、母は何も喋らないので、本当はどうなのかは何もわかりません。
弟から「お父さんの17回忌の命日に姉弟揃って納骨に行こう」と声が掛かり、8月18日に弟夫婦、姉、私達夫婦、そしてたまたま京都に居た次女も加わり、6人で父のご本山への納骨に立ち会うことができました。
納骨の読経を聞きながら御影堂の聖人の姿を見上げると、ここに初めて座った高校1年生の夏からのことが思い出され、その都度にそこには父の姿があったと気づき、涙がこぼれました。
ここ(御影堂)は聖人が私に「念仏申せ」と呼びかけていてくださる場所、今日よりは父まします所として、より近しく感じられる場所となりました。
85歳で逝った父の死にゆく姿、母の現在の姿、「尚子よ、よーく見ておけ」と両親から老病死の実践教育を受けております。
その全てが「念仏申してくれよ」との呼び声に感じられます。

今月の掲示板 2016年9月

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  人は社会から認められて許されて生きるのではない。
  まず、自分がいて生きてみせる。
  そういう一人一人がいやおうなく関係を結んで、
  社会なるものが出現するのだ。

  社会に役立とうが役立たまいが
  人はすべて生きよ。
  お前の生にはそれだけで意味がある。
  まず、自分が生きるように「自分」に命じられている。

  自分の分限を知るのは、
  わが人生を歩み通す上での第一歩なのだ。

  自分は、欠けるところのない人格なのだし、
  森羅万象とも、他者とも創造的な生ける交わりをする上で、
  何の支障もないと自得すること。
  それを、分限を知るという。

  火山は爆発するし
  地震は起こるし
  台風は襲来するし
  疫病ははやる。
  そもそも人間は、地獄の釜の蓋の上で
  ずっと踊ってきたのだ。

  人類史は即災害史であって
  無常は自分の隣人だと
  ついこの間まで人々は承知していた。
  だからこそ、
  生は生きるの値し、輝かしかった。

  特別な才能はなく、平凡であっても
  自己はちゃんと実現されております。

本堂に座って 2016年9月

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夏休みも終わりに近づき、休み中の「出校日」に宿題を出してしまった子どもたちには“これがホントの夏休み”という日が続いています。
宿題については先月の心配が当たってしまい、出校日直前まで「親子でがんばって」、ようやく終わらせたのでした。
無理強いはしたくないけれど、でもちゃんとやって欲しい…「水辺に連れていった馬に、どうやって水を呑ませるのか?」先月の続きの文章を、『嫌われる勇気』から紹介します。

アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。
つまりわれわれは、対人関係からの自由を求めている。「自由とはなにか?」の結論は「自由とは、他者から嫌われることである」。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自由になれないのです。
「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。
わたしをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。
無論、先に紹介したことわざでいうなら「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はするでしょう。
しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。
その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。
アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について、「ほめてはいけないし、叱ってもいけない」という立場をとります。
ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。
つまり、ほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分よりも低く見ているのです。
誰かにほめられたいと願うこと。
あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。
これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。
課題の分離について説明するとき、他者の課題に対して土足で踏み込んでいくような行為=介入について話しました。
対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって相手を望ましい方向に導こうとする。
自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。子どもに「勉強しなさい」と命令する親などは、まさに典型です。
本人としては善意による働きかけのつもりかもしれませんが、結局は土足で踏み込んで、自分の意図する方向に操作しようとしているのですから。
では、もし目の前に苦しんでいる人がいたらどうするか?見過ごすわけにはいきません。
介入にならない「援助」をする必要があります。
援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。
勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強できるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」という、あのアプローチです。
課題に立ち向かうのは本人ですし、その決心をするのも本人です。
こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。
勇気づけにいちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。
評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。
ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けているわけです。
そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは、他者の物差しです。
一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。
人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。
他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること、勇気づけの話もすべてはここにつながります。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)
(来月もこの本から引用する予定です。)

今日も快晴!?2016年9月

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以前に東大教授の安冨歩先生の講演を聴いたことがありますが、「社会のシステムに組み込まれないためにはどうしたら良いのか?自分一人では出来ることが限られているが」という質問に、
「組織の歯車にならないためには、まず自分が立ち止まる。一人が止まれば、かならずその回りの歯車も上手く動かなくなる」と言う答えが印象に残っていました。
そして、この夏休みの最中に、私も自分が立ち止まって選択を迫られる事態に遭遇しました。
春頃から虫歯の治療をしていましたが、治療後も食事の度に歯が染みたり、上手く治っていかない歯があったのです。
時間薬もあるだろうから・・・と様子を見ていたところ、お盆休みの最中に激痛に襲われました。
保冷剤を当てて市販の痛み止めを飲んでも収まらず、ベッドの上を転げ回るほどの強烈な痛みでした。
やっとのことで歯医者さんの予約を取り、受診したところ、「これは神経を抜くしかない。抜くなら早いほうがいいから、すぐに予約をするように」と言われました。
しかし、「神経を抜く」と言うのは、私にとってかなり大きな決断を強いられる事態でした。
同居している両親が歯のトラブルで悩んでいる様子を見るにつけ、「20年後、30年後の自分も同じことになりかねない。二度と生えてこない大事な歯なのに、そう簡単に神経を抜いてたまるか!」と思ったので、「嫌です」と断り、そのまま帰宅しました。
それから、時間との闘いです。
信頼出来る友人達に歯医者さん情報を聞き、インターネットで調べ、紹介されたところに直接電話をしたり、実際に足を運んで、「セカンドオピニオンで来ました」と正直に話し、「こういう状態ですが、神経を抜かずに治療する方法はありますか?」と尋ね、先生の説明を聞き比べました。
2ヶ所で「その状態なら抜く」と言われ、最後に足を運んだ歯科医院で、「分かりました。歯の痛みは、歯髄炎も考えられますから、マウスピースで歯を守りながら歯の負担を減らしてみましょう。痛むと言うことは、まだ(歯が)生きていると言うことですから」と言ってもらえました。
マウスピースと並行して、漢方薬、殺菌力に優れた天然オイル&歯磨き粉、歯痛に効くツボ等々、知る限りのことを試し、「身体に不具合が生じる→病院に行く→医者の言うことを聞く→薬や手術で症状を押さえる」という、今どきの一般的な患者としての行動から逸脱することにしました。
「歯医者さんにとって都合の良い患者であること」をやめたのです。
流れに乗せられそうになったときに、立ち止まること。
立ち止まって自分の頭で考えること。
医者の声よりも、自分の身体の声を聞くこと。
これは、自分が社会のシステムに組み込まれないための、極めて個人的で小さな戦いですが、大きな戦いでした。
数日後、再び受診したところ、「症状が改善しているようなので、もうしばらく様子を見ましょう」ということになりました。
もちろんケースバイケースで、きちんと歯科医院で処置した方が良い場合もあるとは思いますが、「まだ生きてるよ!」という歯の声を聞いて本当に良かったと思いました。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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