清風 2016年10月

テーマ:清風 【住職】

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先生、そりゃ見えたらいっぺんお母ちゃんの顔が見たいわ。
でも見えたら、あれも見たいこれも見たいいうことになって、気が散ってあかんようになるかもわからん。
見えんかて別にどういうこともあらへん。先生、不自由と不幸は違うんやね。


旅先で、私の県の県立盲学校の6年生の全盲の子どものことばを聞かせていただきほんとうにびっくりしました。
この子は、全く見えない世界、光のない世界を生きているのです。
でも、何という明るさでしょうか。闇の世界にありながら、闇が闇のはたらきを失ってしまっています。
光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています。
私は「拯済(じょうさい)」(註)というお救いはこれだなと思いました。
「拯」は「引き上げ救う」、「済」は「渡す」です。
私を生きさせていただく煩悩の闇がどれほど深かろうと、その深さが脅威にはならない人生、それがお念仏の人生だと、この子は教えてくれた気がしました。
『よびごえ』東井義雄著(探求社刊)より
 註)拯済 … 「正信偈」の最後に「拯済無辺極濁悪」とある。
○東井義雄(1912~1991)
現場の教育実践における優れた業績により「ペスタロッチ賞
(広島大学)」はじめ各賞を受賞。本願寺(西)派の寺の住職。

 


私はこの盲学校の生徒さんの文章を読むたびに、「仏教の救い」とはこの子が「先生、不自由と不幸は違うんやね」というこの一句に具体的に明示されていると教えられてきました。目が見えない<事実>を不自由と<判断>し、それは不幸なことだと<評価>する ― そして私どもは、その自分が下した不幸だという<評価>に、実は自分自身が縛られているのです。
あらためてもう一度、その一句と、その一句が持つ意味を確かめておきましょう。「先生、不自由と不幸は違うんやね」と言える主体(自己)の誕生こそを、他ならぬ自分自身が待望しているのです。

 

「和讃」に聞く 2016年10月

テーマ:[和讃」に聞く




 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
 清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
 (註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

仏教では、業は行為の意味で、つぶさにはその行為に身・口・意の三つの行為を考えています。
ここでは「意」、つまり「心で思う」ことです。私たちは心で思ったことに縛られて生きています。
例えば、道路の信号はいつでも変わりなく青・黄・赤と替わって、交通の整理をしているのですが、急いでいるときは青に替わるのが遅いように思います。
どうでしょう?そんなに急がなくてもいいときは、赤信号で止められても、周囲を見渡したり身体が休まって、よかったとホッとくつろいだ気分にさえなったりするのですから。
いらいらするのは信号のせいではなく、こちらの心の有り様に依るのだと分かる、これがここでは「この光に値遇すればこそ、すべての繋縛も除かれる」と言われる所以です。
信号が縛るのではなく、私の心の有り様によって繋縛になったりそうでなかったりするのに、我々はその心の構造からなかなか逃れられません。

 1面の盲目の少年の例からすれば、この少年は、東井先生が「光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています」と感嘆しておられるように、目が見えないにもかかわらず、この心の構造に惑わされていないのです。
 東井先生が讃嘆せられている、この全く目の見えない少年が存在している境涯について、「もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています」と言わしめた光こそ、この和讃(5首目)より後の13首目の和讃で、「超日月光」と詠まれている念仏の徳と言えるのでしょう。
(続く)

お庫裡から 2016年10月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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9月12日、朝6時過ぎ、弟から「母が今、亡くなりました」と連絡が入りました。
実は私は12日から不整脈の治療を受けることになっていました。
それは1ヵ月前からわかっていたので、9月に入ってから母が弱ってきたと聞き、どうぞ12日からの1週間は持ち堪えてもらいたいと念じておりました。
とにかく、私の病院へ連絡し、返事を聞いて葬儀の日を決めるということになりました。
連絡がつき、折り返し病院からかかった電話は「担当の医師が熱を出し、今週の診療はお休みとなりました。
今、予約の方にキャンセルの電話を入れているところです。あなたのお薬は22日に切れますので、その日に来てください」とのこと。
私に「来い」という母の思いが勝ったという気持ちで、フリーになった私は、その日の午後から母の枕元に座り、15日と決まった葬儀まで、存分に母との別れの時間をいただくことができました。
穏やかな顔で静かに眠っているような母の姿。
何度も頬をさわったり手を握って「お母さん、楽になられましたね。92年の人生、ご苦労さまでした。私を生んでくださり、育てていただき、私の子どもたちを慈しんでいただき、ありがとうございました」と耳元で話しかけました。
その都度、まぶたが動いたような、胸元が上下したような、「あれ、お母さん生きている」と顔に触れると、やっぱり母は冷たいまま眠っておりました。
お棺に入ってしまうと、母は遠くへ行ってしまったようで、あれこれ思い出されて、涙がこぼれました。
通夜、葬儀、還骨、初七日、御堂に「正信偈」が響きわたり、私もまた、母と同じ浄土に還らせてもらう身との思いが強くなりました。
母の法名は、光蓉院釋尼和慶。
9月に逝くことを知っていたような名をいただいておりました。
「芙蓉花 御堂ゆるがす 正信偈」 尚子

今月の掲示板 2016年10月

テーマ:今月の掲示板

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  いのちより尊いものがみつからなければ
  いのちは尊いと言えません。
  いのちは大切だ、いのちは尊いと
  どこでいえるのでしょうか。

  欲望は、かなえば必ずあたりまえになっていきます。
  私達は、何を願って生きているのだろう。

  私の根本の願いは
  私の様々な欲望の下にかくれています。
  その人、その人が、意識して
  自分で見出していかねばなりません。

  効率、能率という道具をはかる物差しで
  いのちをはかっていませんか。
  いのちがあるとは、どういうことでしょう。

  私達は、これが自分だと思っているものに
  ずーっとひきずられている。

  どちらか一方が正しいと信じて疑いもしない人間は
  もう一方を理解しがたい他者として
  非難して取りのぞこうとするかもしれない。

  理想をかかげ、声高に自分の主張をする人間は
  しばしば、そういう己のおごりに気がつかない。

  自分は正しい、そう強く思う時ほど注意深くなろう。
  物事は表裏一体。
  どちらか一方の側から見ただけでは見えない景色がある。

本堂に座って 2016年10月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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これまで数ヶ月にわたって『嫌われる勇気』という本からの引用を続けてきました。
「ほめても、叱ってもいけない」、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」など、分かりやすいようで、実際にはどうやったらいいのかが難しい内容が多かった様にも思います。
「自分は共同体にとって有益である」「他者に貢献できている」と感じられる感覚 ―「共同体感覚」を読み取りながらまとめてみたいと思います。

他者を「敵」と見なすか、あるいは「仲間」と見なすのか ― もしも他者が仲間だとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。
さらには、仲間たち(共同体)のために貢献しようと思えるようになるでしょう。
このように、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
共同体感覚を持てるようになるために必要になるのが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つになります。
まずは「自己受容」。われわれは「わたし」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできない。
大切なのは「与えられたものをどう使うか」です。
ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。
自己肯定ではなく自己受容です。
この両者には明確な違いがあります。
自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」と、自らに暗示をかけることです。
一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、前に進んでいくことです。
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。
われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。
しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力で変えていくことができます。
わたしのいう自己受容とは、そういうことです。われわれはなにかの能力が足りないのではありません。
ただ“勇気”が足りていないのです。
次に「他者信頼」について。
ここでは「信じる」という言葉を、信用と信頼とに区別して考えます。
信用とは条件つきの話です。
これに対して、対人関係の基礎は「信頼」によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります。
信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。
客観的根拠がなかろうと、無条件に信じる。それが信頼です。信頼の反対にあるものは、懐疑です。
仮にあなたが、対人関係の基礎に「懐疑」を置いていたとしましょう。
そこからなにかしらの前向きな関係が築けると思いますか?われわれは無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。
裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。
あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。
自分を受け入れることができて、なおかつ他者を信頼することができる。
この場合、あなたにとっての他者は仲間です。
他者のことを敵だと思っている人は、自己受容もできていないし、他者信頼も不十分なのです。
しかし、共同体感覚とは自己受容と他者信頼だけで得られるものではありません。「他者貢献」が必要になってきます。
他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。
この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないのです。
あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。
ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。
つまり、たとえ目に見える貢献でなくとも「貢献感」を持てれば、それでいいのです。

 われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
過去にどんなことがあったか、未来がどうであるかなど、「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
アドラーは「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と語っています。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえないのです。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)

今日も快晴!?2016年10月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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9月12日の朝に、三重に住む母方の祖母が亡くなりました。
92歳でした。
悲しい出来事ではありますが、母の手術の予定が変更になるなど奇跡的なことが重なり、家族皆揃って葬儀に参列することが出来ました。
悲しいながらも、「絶妙のタイミングだったよね。
みんなで葬儀に参加出来て本当に良かったね!」と話している内に皆笑顔になり、
「おばぁちゃん、ありがとう!」という気持ちで見送ることが出来ました。本当に良い葬儀でした。円称寺の門徒さんたちも皆で一緒に本堂でお勤めをして祖母を送って下さり、皆から愛され、惜しまれる祖母の人柄が偲ばれました。
祖母と同居していた叔父夫妻も、だんだん衰えてゆく祖母の世話は大変だったと思いますが、いつも笑顔で優しく祖母に接してくれている様子を見て、本当に頭が下がりました。
私たち家族は、8月の後半に5人揃って祖母に会いに行っていました。
もう目も開かず、口をぽかんと開けて寝続ける祖母の姿を目の当たりにし、(これは、もう長くは持たないだろうなぁ・・・)と、肌で感じました。
「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と何度も名前を呼んで手を握り、足をさすり、耳元で子どもたちも一緒に「ふるさと」を合唱し、(もう思い残すことはない。いつお別れが来ても大丈夫)と納得して帰ってきたので、晴れやかな気持ちで葬儀を受け入れることが出来ました。
東京の妹たちも、夏休み中にのの葉ちゃんを連れて祖母に会いに行っており、ほとんど意識の無い様子を見ていたので、
「おばぁちゃん、もう十分だよね。今までよく頑張ってくれたよね」と状況を理解して受け入れていました。
妹たちは東京から葬儀に駆けつけてくれて、一緒に涙を流しながらも「ののちゃんを見てもらえたし、私たちも大満足」と、笑顔で賑やかに見送ることが出来ました。
おばぁちゃん、人が年を取るとどうなってゆくのか、身をもって教えてくれてありがとう。
認知症を患い、出来ない事が増えて、言葉が消え、表情が消え、車いす生活から施設で寝たきりになり、だんだん衰えてゆく様子を全部見せてくれてありがとう。
棺の中で、本当に穏やかな表情でいてくれてありがとう。おばぁちゃん、とても綺麗でした。
でも肌に触れると冷たくて、(ああ、もう血が通っていないんだな)と感じることが出来ました。
そして、火葬場では、私たち孫や、ひ孫たちにも骨を拾わせてくれてありがとう。
いつも耳にしていた「白骨の御文」の言葉が、身に染みました。
こうして人は、仏さまの国へ帰ってゆくのですね。
お内仏で、また本堂で、いつもお念仏をする姿を見せてくれてありがとう。
人はいつか必ず年を取るし、病気にもなるし、最後には必ず死んでゆかねばならない。
必ず死んでゆく命を生きる私たちが、どういう人生を頂いてゆくのか・・・。
おばぁちゃんの死から大切な課題を頂いて、私もまた、いずれ死んでゆく命を大切に生きてゆきたいと思います。
きちんと自分の人生を生ききった姿を、そして死にきってゆく姿を見せてくれて本当にありがとう。
おばぁちゃんの孫として産まれて本当に良かった。南無阿弥陀仏。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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