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清風 2016年12月

テーマ:清風 【住職】

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当たり前にある日常のありがたさを胸に 僕たちはグラウンドに立ちます
2016年、春の甲子園・選抜高校野球 選手宣誓

 

今年も1年が暮れようとしています。
今年の出来事の中で感銘を受けたのは、この高校生の宣誓の内容でした。「
当たり前にある日常のありがたさ」、この言葉を聞いてどう感じられるでしょう?皆さんもこの一言に「人間は捨てたものではないな」と思われたのではありませんか。
豊かさと言えばいいのか、深さと言えばいいのか、とにかく人間が成熟していくとすれば、進歩とか経済成長とかいろいろ言われている中で、「それは何のためか?」の一言がなければ、それらは全て空虚なる内容のない言葉でしかないということになるでしょう。
進歩と言い、経済成長と言い、いわゆる「経世済民」と言われるように、世と民を潤していかなければ、逆に民が経済成長の僕(しもべ)となり、つまり経済成長のためにのみ国民が位置づけられていく、全く逆転した様相になっていくのでしょう。
何のための経済成長か ― 人間が経済成長を目的として生きるとすれば、いったいどれだけ豊かになれば、もう経済の成長は十分だと言えるのでしょう。

経済成長のために一流企業の社員が過労死を強いられているというニュースを聞くと、暗澹たる思いにならざるを得ません。
いただいたいのちは、私(人間)に何を望んでいるのしょうか。

「当たり前にある日常」こそが「有ること難い」ことだと、来年はあらためてこの言葉の持つ意味を味わいながら歩みを進めていきたいと思います。

「和讃」に聞く 2016年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
(註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

一面の「当たり前」についての文章の最後に、「いただいたいのちは、私(人)に何を望んでいるのでしょうか」と記しました。
皆さんはどう思われますか?「いのちは大切だ」「いのちは尊ばれなければならない」と言われますし、また自分で言いもします。
では、いのちは尊いと本当に思っているのでしょうか?また思っているとすれば、なぜその尊いいのちを殺したり自死をするということが、進歩した現代においても頻繁に起きるのでしょうか?
まぁそれはくちばしの黄色い青二才の言うことであって、しばらく放っておけば他へ議論が移っていくと高を括られている、状況まかせにされてしまっている様です。
国民の側(私)も、人間観としていのちが尊いと言いながら、実際には自分にどれだけ付加価値を付けるかということになっているのではないでしょうか。
付加価値を付ける…受験はその近道と考えられているのでしょう。学歴は、付加価値としてはまだまだ評価の高いものとされています。
かつては受験戦争とまで言われたものです。
付加価値(健康・肩書(地位、役職)・財産などなど)とは、比較しての話ということでしょう。
つまり、いのちも比較の上であって、いのちそのものが尊いということは全く問題にもされません。
それが現代の偽らざる人間観だと言っては言い過ぎでしょうか?
ものではない「いのち」そのものは、いったい人間(私)に何を願っているのでしょうか。
今一度、「問いかけるもの」という面からではなく「問われているものとしての私」という視点が回復されねばならないのでしょう。
その時、一面でとりあげた「当たり前にある日常のありがたさ」に帰らされるというか、平凡な「日常」が私にとっての新たな光源となってくるのでしょう。
では「畢竟依」とは何を指すのか…。「忙しい」、他ならぬこの私も、また相対的なことを「畢竟依だ」としているということでしょう。

お庫裡から 2016年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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11月15日夜、我家に悲しいニュースが飛び込んできました。
甥(姉の長男)が亡くなった、という知らせです。
脳腫瘍という病名がわかって約1年、今年のお正月明けに手術をし、良くなってくれるものと思っておりました。
しかし、願いはなかなか叶わず、秋に入ってから再入院をしておりました。
甥は私たち姉妹の初子なので、私にとっても誕生の時からとても印象深く、たくさんの記憶が残っております。
小さいときから理解力に優れ、気性は穏やか、時にはおちゃめで、我家の娘たちにとっても、頼もしい誇らしいお兄ちゃんでした。
名古屋大学から大谷大学に進み、インドへ留学、また名古屋大学へ戻り、結婚後はアメリカのハーバード大学で学び、若くして名古屋大学の准教授になったと聞いた時は、「いとこの中の誉れ星だね」と、娘たちと喜び合ったものです。
頼りの長男に先立たれた悲しみに、義兄は一回りも二回りも小さくなったように思います。
姉は悲しみを内に秘め、気丈にふるまっています。
ふとんに横たわる甥の姿は、鼻高く、眉凛々しく、ああこの子はこんなにハンサムだったんだ、こんなにも背も高かったんだと、大人になっていた甥を(小さいときの記憶が強すぎて)再発見する思いです。
中学、高校の2人の子どもと妻と両親、102歳の祖母を残し、学究半で彼岸に旅立つことが、48歳の甥にとって、どんなに無念であったことかと思うと、涙が止まりません。
本当に惜しいことだ、残念なことだと涙があふれます。
彼岸では、9月に逝った母が驚きながら「あれー、俊也、早く来たねぇ」と父と一緒に手を取り合って迎えてくれたことでしょう。
私も必ず。
待っていてください。

今月の掲示板 2016年12月

テーマ:清風 【住職】

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  己こそ 己のよるべ
  己をおきて 誰によるべき
  よく調えられし 己にこそ
  まこと得がたきよるべをぞ得ん (法句経より)

  真の救いは
  自分が自分で独り立ちして
  他の支柱を要しないこと

  自分に頼れば
  大悲は姿を見せない
  否、あっても見えない

  ころころ変わる自分の心なのに
  その心を私たちは
  神よりも仏よりも確かなものと信頼している

  自己が否定されて
  初めて本当の自分に目覚める

  偽になったら もうええだ
  なかなか偽になれんでのう (源左)

  阿弥陀が なぜ我が名を呼ぶことをもって
  (念仏を称えること)
  救済としたのか
  そのいわれを聞き抜くことが
  信心獲得のための第一歩だ

  他力の信心は善悪の凡夫
  ともに仏の方よりたまわりたる信心なれば
  源空が信心も善信房の信心も
  更にかわるべからず
  ただ ひとつなり
  わがかしこくて信ずるにあらず (歎異抄)

本堂に座って 2016年12月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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よく見ているテレビの書評番組で、『人間にとって健康とは何か』という本が紹介されていました。
自分自身は「健康」について、ふだんそれほど意識することは無いのですが、「幸福」を“過程”、「健康」を“状態”と考える視点が面白いと思い、読んでみました。
内容は…かなり難しくて読み進めるのがやっとという感じでしたが、WHOの健康についての定義「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」ことから始まり、「幸福」「健康」の受け止め方で終わります。
ここでは「幸福と健康」・「過程と状態」について書かれている部分を引用します。

私たちは幸福については雄弁に語る。
病気についてもお喋りになる。
しかし私たちは、健康についてはほとんど語らない。
いや、もっと正確にいえば、私たちは健康法やサプリで「健康になること」は好んで語るが、「健康であること」については語らない。
これはなぜなのだろうか。
中井久夫氏は戦争と平和についてこう書いている。
戦争は「過程」であり、平和は「状態」である、と。
これは「なぜ平和が維持しにくいのか」ということの説明として、非常に説得力がある。
中井氏によれば戦争とは、始まりと終わりがある「期限付きのプロセス」だ。
「勝利のため」という一点に気持ちを集中させやすく、それ以外のことは単純化されやすい。
プロセスには目的、意義、そして戦略がある。
好戦的な人の言葉が説得性を帯びやすいのは、プロセスのほうがとにかく語りやすいためである。
一方で、平和は「状態」だ。
輪郭もなく、曖昧で、目的があるともないともいえない。
なぜ平和がよいのかと尋ねられても「だって平和のほうがいいに決まっているでしょう」というトートロジー(いつまでも同じことのくりかえしで先に進まない議論)になってしまう。
平和主義者の言葉が、概して曖昧で説得力に乏しく思われるのは、そのためもある。
ここで「戦争」を「幸福」、「平和」を「健康」に置き換えてみよう。
すなわち幸福は過程であり、健康は状態である、と。
つまり、幸福は過程であるがゆえに雄弁に語られうるが、健康は状態であるがゆえに語る言葉に乏しいのである。
別の言い方をするなら、幸福は過程だからこそ「上限」がなく、健康は状態だからこそ定常状態がある。
「世界一幸せです!」という言い回しと同じニュアンスで「世界一健康です!」と宣言する人はまずいまい。
私たちが自らの健康にすらしばしば無関心になるのは、それが「平和」と同様の定常状態と感じているからだ。
だから健康は幸福以上に、「失って初めてその価値に気付く」ものなのである。
もし「幸福」を状態のように語ることが可能になれば、健康との両立が可能になるだろう。
幸福を「過程」として捉えるかぎりは、それは決して安定的な所有物たりえないが、「状態」として捉えることで、誰もが手に入れられるものとなる。
過程としての健康を求め、状態としての幸福を享受する。この姿勢こそが、健康と幸福のもっとも安定した関係といえるのではないか。
(『人間にとって健康とは何か』斎藤 環 著より抜粋して引用しました。)

「幸福になること」については目的地がハッキリしているので実感しやすいのですが、「健康であること」は“あたりまえ”になってしまうことで「見えない・語られない」ものになってしまっているのでしょう。
だからこそ「失って初めてその価値に気付く」ことになるのですが…。
今月号の「清風」1面に「あたりまえにある日常のありがたさ…」ということばが紹介されていますが、これこそが「幸福であること(=「幸福」を状態として語ること)」なのだと思います。
「幸福」は「なるもの」ではなく「あること」だと知ることで、条件に依らない「幸福」を見つけることができるのだと思います。

今日も快晴!?2016年12月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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長男が中学校に入学し、しばらくしてから中学の読み語りボランティアに参加することになりました。
小学校の読み語りに比べると、聞き手の子どもたちが大人に近づいている分だけ選書には気を使います。
小学校よりは内容のしっかりしたものを・・・、腰を据えて15分間聞いてもらえる内容を・・・ということで、今月は「世界で一番貧しい大統領のスピーチ」(くさばよしみ 編:中川学 絵 汐文社)を選びました。
この絵本は、2012年のブラジルのリオデジャネイロで開かれた国際会議の場で演説されたウルグアイのムヒカ大統領スピーチを元にした絵本です。
このスピーチが非常に素晴らしかったとネット上でも評判になっており、2014年に絵本の形で出版された翌年は、Amazonの絵本のランキングで第一位となっています。
目で読んでいても素晴らしい内容だと思いましたが、教室で子どもたちを相手に読むと更に言葉に輝きが増し、(ああ、やはり元々スピーチとして書かれたものは、声に出して読むことできちんと伝わるようになっているんだなぁ)と感動しました。
絵本の中身を少し紹介したいと思います。

「・・・わたしたちの頭には何が浮かんでいるでしょう?もっと豊かになって、欲しいものがどんどん手に入る、裕福な社会を望んでいるのではないでしょうか?・・・70億や80億の全人類が、今までぜいたくの限りを尽くしてきた西洋社会と同じように、ものを買ったりむだづかいをしたりできると思いますか。・・・私たちは、もっと便利でもっと良いものを手に入れようと、さまざまなものを作ってきました。おかげで、世の中は驚くほど発展しました。しかしそれによってものをたくさん売ってお金をもうけ、もうけたお金で欲しいものを買い、さらにもっとたくさん欲しくなってもっと手に入れようとする、そんな社会を生み出しました。・・・そんな仕組みを、わたしたちはうまく使いこなしているでしょうか。それともそんな仕組みにおどらされているのでしょうか。・・・私たちが挑戦しなくてはならない壁は、とてつもなく巨大です。目の前にある危機は、地球環境の危機ではなく、わたしたちの生き方の危機です。・・・人のいのちについてはどうでしょうか?私たちは発展するためにこの世に生まれてきたのではありません。幸せになろうと思って生まれてきたのです。・・・水不足や環境の悪化が、今ある危機の原因ではないのです。ほんとうの原因は、わたしたちが目指してきた幸せの中身にあるのです。見直さなくてはならないのは、私たち自身の生き方なのです。・・・わたしが話していることは、とてもシンプルなことです。社会が発展することが、幸福を損なうものであってはなりません。発展とは、人間の幸せの見方でなくてはならないのです。人と人とが幸せな関係を結ぶこと、子どもを育てること、友人を持つこと、地球上に愛があること、こうしたものは、人間が生きるためにぎりぎり必要な土台です。・・・」

繰り返し語られる
「今ある危機は、私たちの生き方の危機である。私たちが目指してきた幸せの中身にある」
という言葉は、真実を語っていると思います。そして、
「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、かぎりなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである」
という言葉も心に響きました。

清風 2016年11月

テーマ:清風 【住職】

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いにしへは こころのままに したがいぬ 今はこころよ 我に したがへ
                        一遍上人(1239~1289)

ここに言われている「我」とは、いったい誰を指すのだろうか?というのは、この歌は「以前は、私の心に浮かんできた意識のままに、私はしたがってきた。
しかし今は、心(意識)よ我に従え」というのであろう。
それなら、前半の私と後半の「我」とはいったいどう違うのだろうか。
違うとしたら、後半の「我」とは何(誰)をさすのだろうか。
この歌を考察するには、作者が一遍上人であることを、まず考えるべきであろう。
仏教、とりわけ浄土教の系譜に繋がる人である。
そうだとすれば、仏教ではよく知られているように「一切衆生悉有仏性(いのちあるものは、ことごとく仏となる種(因)を有している)」と言われることが思い起こされる。
結論を先に言うならば、後半の「我」はこの仏性を指している。
ここでの仏性とは仏のハタラキを指している。
つまり、この歌を詠まれた時の一遍上人とかつての一遍上人とでは、自分を見る視点がまったく変わっていることに気付く。
この歌を詠まれた時の一遍上人にとって、仏性とは抽象的なことではなく、念仏すなわち南無阿弥陀仏こそが「我=真実主体」であったと気付かれたことである。
念仏は、如来の本願(仏性)によって誓われた、仏性(真実)そのものである。
「気ままなこころ」は拠り所とはならない。
この歌は、私が拠り所としてきた「我が心の判断」が仮のことであると念仏(真実)から教えられた、仏者・一遍上人の誕生を物語るものであるといえる。
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」(法語カレンダー2015年6月)と気付かせたハタラキ、それが念仏(真実・仏性)である。
先人は、人は生きる限り「悩む」もの、それは人間(私)の基礎知力であると受け入れてきた。
たとえば「おかげさま」と。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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