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清風 2017年2月

テーマ:清風 【住職】

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近代文明ほど、人間に対して敵 対的な文明は歴史上存在したことがない。
それは、スリリングな文明であり、人を憩わせることがない。
これが史上初めてのヒューマニズムを標榜する文明であったことは、それ自体スリリングな逆説である。

『荒野に立つ虹』渡辺京二著(P139 葦書房 1999年10月初版第1刷)
(現在は『新編 荒野に立つ虹』として弦書房より刊行(2016年11月)されています)
著者…1930年生まれ、思想家。
著書『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)など。


刑法で禁じられているはずの賭博を合法化する議員立法(カ ジノ法・IR法)が、多くの欠陥が指摘される中、衆議院の委員会の6時間にも満たない審議で与党の多数で強行採決され(参議院の内閣委員会では16時間の審議)、賭博を禁じた刑法のもとで民営賭博を認めるという、法秩序の大転換に向けた決定がされた。
今後、こうした問題を含むカ ジノ法は、安倍首相を本部長とする「整備推進本部」のもと、有識者による整備推進会議やカジノ管理委員会の設置が予定されている。
カジノ法による賭博場は、1日24時間、365日休みなし、賭け金額の上限がない。
カジノの公益性とは何であろうか。
詳しいことは、カジノ法の下に設置される諸会議で慎重に(?)審議されていくことを期待したい。
要するにこの法は、施設が稼働すれば経済的効果が大きく公益性を満たすという論法が繰り返された。
経済効果があれば、賭博依存症というような人を生む可能性が多分に予想される「人間に対して敵対的な施設」が、政府の音頭取りで合法化されていく。
まさに近・現代の文明の一つの象徴と言えようか。
ヒューマニズムとは人間尊重という主義ではなかったのか。
人間を非 人間化する施設が経済効果の大義を付けて合理化されていく。
人間のための経済が、経済(利潤)のために人間が資源として使われる事態が、堂々とまかり通ることとなった。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

テーマ:ブログ

仏事(葬儀・法事)に課せられていること
「真宗の仏事の回復」を願って
註)2011年に勤まった親鸞聖人750回御遠忌基本方針
テーマは「今、いのちがあなたを生きている」でした。
 
1979(昭和54)年、私は縁がありまして、無住でしたここ守綱寺に家族4人で入寺いたしました。
その頃、門徒さんの家に伺い、親鸞聖人の仏事(法事)であります「お取りこし」を初め、年回法事などを勤めていました。
各家に伺いますと、大抵、仏壇の引き出しの中に和紙に木版で印刷されたお勤めの本(360頁)、それに蓮如上人(本願寺8代)制作の『お文』(手紙を編纂したもの、カタカナ書き。5帖200頁)があり、その『お文』を拝読するのが楽しみでもありました。
その和綴じの『お勤めの本』も『お文』も、各頁左下の部分が薄黒くなっているのが常でした。
しかしそれは、汚いというより、年輪というか、繰り返し繰り返し読まれたことを示す、その家の尊い精神史を見せてもらっている様でした。
その一方で、その頃もそうですが、今でも『勤行本』は「正信偈」(親鸞聖人制作の漢詩、七言一句120行)は漢文のみで読み下しもなく、もちろん意訳は付いていませんでした。
私は当時、お勤めの後その家の方々とその本を巡って話をさせてもらっていました。
よく聞かれたのは「いったい正信偈というのは何が書かれているんですか?」つまり「なぜ読むのか?」ということです。
正信偈は漢詩ですから、意味がわからない…そういう訴えを聞かせてもらう様になりました。
そういう経験のなかから、「読み下し」と「意訳」を付けた勤行本を作製しようと組内の住職方に呼びかけ、賛同を得て1995年4月に『同朋唱和勤行集』として発行させてもらいました。
その後もご協力いただき、増補し3刷版を2013年11月に発刊することができました。
そういう歩みを重ねさせていただくなかで、上にに挙げた様に毎日繰り読みされて黒くなった『お勤めの本』『お文』を見せてもらい、漢文の「正信偈」・室町時代の古文である「お文」をとにかく毎日読めた(或いは読ませた)その原動力、生きることの根源にあった求めに応答するものが、ここにはあったに違いないと思わせられ、当時の農作業の大変さを思うとき、作業の始まる一日を正信偈で始め、正信偈・お文で終えていく、その生活を支えた文化というかライフスタイルが大変尊いものであったのだということに気づかされたことでした。

進化・進歩した人間は、「万物の霊長」と人間自身が勝手に自分で名付けているのですが、しかし、どうでしょうか。
「私たちはどこからきたのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか」(ゴーギャン 画家)という問いは、決して過ぎ去った問いではなく、先程の生きる上での「根源的問い」として、いつの時代も人は問われて在る者なのでしょう。
悩む者、なぜ悩むのか、と。それこそ基礎知力(基礎体力に対し)なのでしょう。つまり、問われてある者・人間ということではないか、と。
釈尊の遺された言葉に、「あなたは、あなたで在ればよい。あなたは、あなたに成ればよい」というものがあります。
「私たちは何者か」とは、決して古くさい問いではなく、人類の歩みを通して尋ねてきた問いと言えるのでしょう。

ご法事の折に「お坊さん、生きているものがわからないお経というものは、死んだらわかるんですか」と問いかけてくれた小学3年生ぐらいの子の純な表情の様な、「お経にはいったいどういうことが説かれているのか」という問いすら聞けなくなってしまっている現状からすれば、仏事(法事など)を勤めることが習俗としての通過儀礼とも了解されていく、つまり(少し極端な言い方と思われるかもしれませんが)非仏教徒を熱心に育てていることになっているのでしょう。
今月号から、こうした課題を担った儀式としてあった葬儀・年回法事をどのように私が受け止めさせていただいてきたのか、歩みのなかで考えさせられましたことを記させてもらおうと思います。
歩む力をいただいた万分の一のご恩返しと思ってくだされば有り難い事であります。(続く)

お庫裡から 2017年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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大寒には大寒波がやってきて、当地にも一日雪が降り積もりました。
大雪で難儀をされている地方の皆さまには、お見舞い申し上げます。
孫達は、久しぶりの雪に大はしゃぎ。
一日中、外遊びに興じておりました。
私も確かに孫達と同じ年令は通っていて、あんな頃もあったはずだと思うものの、今は寒さに家から一歩も出ない日が多くなっています。
携帯が壊れ、新しく買い換えました。
年々に機械の操作が面倒で、不携帯のことも多く、便利な道具なのに、使い切れていないのが現実です。
最低、基本の操作は覚えようと新しい携帯を操作していたら、歩数計がついていることがわかりました。
私の手元に来てからの毎日の歩数が全部記録されているのです。
おまけに、消費カロリーまで。
436歩、1410歩、2329歩、1604歩。
消費カロリーは、14カロリー~22カロリー。
もちろん、携帯を携帯している時間の記録なので、正確なものではありませんが、毎日摂っている食品のカロリーを考えても、消費されないものが体内に残って蓄積されていくのかと思うと、ちょっと怖いものがあります。
一度、朝起きてから一日の歩数を計ってみたいものだと思いながら、それも果たせずにおります。
「寒い時には暖を取っておいしいものを食べ、体力をつけ春を待つのがよろしく候。それが冬を乗り切る秘策に候」と、良寛さんならぬ私めが独りごちしています。
この寒い冬を、どうか皆さまお元気に乗り切ってくださいませ。

今月の掲示板 2017年2月

テーマ:今月の掲示板

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人生については
誰もがアマチュアなんだよ
そうだろう

今の人は、いくつになっても
“自分探し”が好きだけれど
ちょっと、自分を探しすぎ
求めすぎですよね

上を目指すことばかりにとらわれて
現在を否定してしまったら
どんどんしんどくなっていく

与えられたものに満足し
そこでできることをやっていく
そういう生き方も
悪くないんじゃないでしょうか

今ある自分をしっかり生きれば
それは、きっと明日につながっていく
(ここまで、プロデューサー・河毛俊作 ビッグイシューより)

私たちは
死ぬとき、どうやって死ぬのだろう
死ぬときの言葉ってありますか
昔の人は「南無阿弥陀仏」と言って死にました
今のあなた方は、何と言って死ぬんですか
(佐藤正英)

あなたはあなたに成ればいい
あなたはあなたで在ればいい
(釈尊)

本堂に座って 2017年2月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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あるテレビ番組で「現代を生きる私たちの矛盾を風刺的に表現した」として紹介された文章が気になって調べてみました。
その文章を(一部省略して)紹介します。

この時代に生きる 私たちの矛盾
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
お金を使っているが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている

家は大きくなったが 家庭は小さくなり
より便利になったが 時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている

飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し 笑うことは少なく
猛スピードで運転し すぐ怒り
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
読むことは稀で テレビは長く見るが 祈ることはとても稀である
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
喋りすぎるが 愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる

生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない

空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
計画は増えたが 成し遂げられていない
たくさん書いているが 学びはせず

情報を手に入れ 多くのコンピュータを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている
ファースト・フードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
レジャーは増えても 楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
夫婦でかせいでも、離婚も増え
家は良くなったが 家庭は壊れている

忘れないでほしい 愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることのできるこの唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを 心を込めて
(ボブ・ムーアヘッド:原作 佐々木圭一:訳)

今日も快晴!?2017年2月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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「子ども食堂」という活動が気になっています。
育児放棄、虐待などで満足に食事を与えられない子どもに、無償または安価で食事を提供する活動です。
「子どもの貧困」という言葉も耳にする機会が増えましたが、お腹を空かせてすさんだ気持ちでいる子どもがいると思うと、本当に切なく苦しくなります。
何か出来ることがあればしてあげたい思うのですが、よほどの覚悟と周囲の体制が整ってからで無いと、自分の家族を犠牲にすることになっては本末転倒です。
まだその時期では無い、だけど気になる・・・ともやもやしている時に、NHKスペシャル「ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所」という番組を見ました。
ばっちゃんこと中本忠子さんは、広島で保護司として子どもたちと関わる中で、「罪を犯す子どもたちは、お腹を空かせている」という事実に気付き、30年以上子どもたちに無償で食事を提供する活動を続けていらっしゃいます。
番組の中では、金髪の子、虐待を受けている子、刑務所から出てきた子、住む家を失った子・・・様々な子どもがばっちゃんの家にやってきて、温かい手作りの食事を振る舞われます。
「腹が減ると(これくらいいいじゃろ)と、考えなくなる」、「手作りいうんは一番良い。それで子どもたちは収まる」と、ばっちゃんはご飯を作り続けます。
ばっちゃんは、子どもたちが空腹から非行に走り、社会全体に広がる不寛容の空気のせいで立ち直りがむつかしくなっていると感じています。
子どもたちは悪循環から抜け出せずにいて、子ども3人がばっちゃんのところで世話になったという母親は、全身に入れ墨を入れ、自分もまた親の愛情を知らずに育っていたのでした。
「こんなに大変なのに、なぜ続けるのですか?」取材している記者は繰り返しばっちゃんに尋ねます。
「続けているのは、きっとそこに何か喜びがあるのでは?」との問いに、ばっちゃんは「辛いば~っかで喜びなんかありゃせん!」と、ぴしゃりと言います。
「子どもに面と向かって『助けて!』と言われたことの無い人間には分からん」というばっちゃんの言葉から、簡単に「子どもたちの笑顔を見ると元気になります。こちらが癒やされます」などと言えない、厳しい現実があるのだろうと思いました。
一緒に番組を見ていた次男に、「ねぇ、お母さんもばっちゃんみたいに困っている子どもを助けてご飯を作ったりしてあげたいんだけど、もしそんな活動を始めたら、そっちの方が忙しくて誓くんたちが寂しくてぐれちゃうかもしれないから、まだやれないなぁ」と言うと、「そうだね。ぼくがこっちの側(=インタビューを受けていた刑務所から出たばかりの子)に行っちゃうかもしれないもんね」とさらりと言います。
本当にそうです。まずは自分の子どもに寂しい思いをさせないようにしないといけません。
一人の人間を育てるということは、本当にものすごい労力のいるとてつもない大仕事だと思っています。
時短や手軽さばかりがもてはやされる今ですが、子育てだけは手短に・・・というわけにはいきません。
子どもたちが「お母さん、もう良いよ」と言ってくれるまでは、お金は掛けなくても手間暇だけは掛けてやりたいと思います。
ばっちゃんになれなくても、子どもたちの母業は全うしてゆきたいと思います。

「和讃」に聞く 2017年1月

テーマ:[和讃」に聞く



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。

新たな年を迎え、本年も相変わりませず、よろしくお願いします。
この欄では親鸞聖人が念仏のいわれ(徳)を記してくださった和讃(詩)を紹介しているのですが、新年ということもあり、和讃に「一切の有碍にさわりなし」とか「畢竟依に帰命せよ」と詠われている念仏の世界について、坂木恵定師の言葉を紹介させてもらいます。(『崇信』平成2年1月号より)

  充 足
人は
色んなことを
一生懸命やっているが
一番大事なことを
抜きにして
やっているに
ちがいない
何か起こると
あわてふためいて
泣き叫ぶより
外にない
自分の思いを皆
とられて 裸に
なるから だが
そこにこそ充実がある
    ○
子どもの時からの
つきあいで
あんな落ち付いた
慎重な
人は稀で
その人の前では
自分など
はずかしい限りだと
思っていたが
その人 大通りの
道を渡って
自動車にはねられ
即死した
之には
一言もない

慎重もいいが
事実は
そんなものを
けとばして
時が
まっしぐらに
すすんでゆく

人間は 失敗や
成功やと
さわぎたてて
いるが
それから
何を得たか
勿論
慎重な生活
態度をけなす
わけではない
併し失敗は勿論
慎重も共に
浮いているで
ないか

失敗も
成功も
どちらでも
頂戴出来る
何ものかを
感得できないか

朝から晩まで
そこに現れたものは
何にもないのだ
それそこにと
指指すものが
指指している
だけのことだ
何にもないのだ

之を一切の
有碍にさわりなしと
誰かが叫んだ

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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