清風 2017年4月

テーマ:清風 【住職】

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あなたはあなたで在ればよい
あなたはあなたに成ればよい   釈尊
 


もう60年ほど前、アメリカの映画の主題歌で我が国でもよく歌われた「ケ・セラ・セラ」は、各フレーズの最後に「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」という言葉が繰り返されました。
歌詞は知らなくても、この繰り返される部分のみは覚えている方もおられると思います(私もその1人です)。
この歌が流行したずーっと後に、聞いた言葉が次のようなものでした。

どうかならなければ幸せになれないものは
どうなってでもその幸せは 長くは続かない  釈尊

そして現在、私どもがよく聞く言葉は「いのちは尊い だから 大切にしなければならない」というものです。
この言葉を聞いて、何か落ち着かない―もう少し言わせてもらえるならば、何かうさん臭さを感じるのはなぜなのでしょう。
今よく使われる言葉で言うならば「上から目線」ということでしょうか。
「ケ・セラ・セラ」で繰り返されるフレーズ「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」を聞くと、妙に納得したというか「わかりました」と引き下がらずにはおれないものを感じさせられたことですが、どうでしょう。
私は冒頭に掲げたこの釈尊の言葉に出遇い、「そうか」と思わせられたことでした。
それは、こういうことかと思います。
「いのちは尊い」と言われてきたのは、物のように代わりはない―つまり「私のものではない、他人のものもない」という至極当たり前の事実を表現しているということ。
そうです、「いのちはいのちのもの」であったのですし、あるのでしょう。だから「いのちは尊い」と言われてきたのです。
つまり端的に言って、いのちは与えられたもの、私に預けられたものであったのです。
では、預けられたいのちは、私に何を願っているのでしょうか。
それを表現しているのが、上に掲げた釈尊の言葉であったのです。
俗にも「(私の)思うようには ならないけれど なるようには なる」と言われています。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

テーマ:ブログ

3・11から6年、今年は7回忌の年です。
あの震災から2年半ほど経過した2013年10月11日の午後、自動車のラジオを聞いていたとき、今もよく覚えている「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さはわからないと思います」という言葉が聞こえてきました。
当時は毎月11日には、ラジオ・TV、新聞でも東北の人たちのことを忘れまいと、現地からの状況が伝えられてきました。
その企画で現地の人々へのインタビューの中での発言でした。
葬儀は、一言で言うなら、縁あった方が亡くなったことによって行われるものとも言えるのでしょう。
亡くなったその方との縁の有りようは様々でしょう。
縁はいろいろなのでしょうが、実は残された者は亡くなった方からどういうメッセージをいただいてゆくか…という縁(場)でもあるのです。
その時に、亡くなった方を「仏さん」と呼んできた故事が、今この現代という時代にあって、私はあらためて思い起こされるのです。
それは1面にも書きましたように、いのちは誰にあっても「与えられたもの」だからです。
与えられたものを私有化している、それを人間は知恵を持ったばかりに忘れてしまった。
そのことに気付けという催促をいただいている場(縁)、それが仏式で葬儀が行われている意味なのです。
そのことを詠んだ詩「生」(杉山平一 作)を紹介します。

ものを取りに部屋へ入って
何を取りに来たかを忘れて
戻ることがある
戻る途中で
ハタと思い出すことがあるが
その時は すばらしい

身体が先に この世へ
出てきてしまったのである
その用事は何であったのか
いつの日か思いあたるときの
ある人は 幸福である
思い出せぬまま
僕はすごすごあの世へ戻る

私がこの世へ出てきた「その用事は何であったのか」を改めて問う、その「尊いご縁」を「今、いただいている」、それこそが葬儀の場からの新しい出会いをいただくスタートであったのだと。
とすると、「安らかにお眠りください」と、もし弔電などで発信すれば、「目を覚ませ」と身体(からだ)全体をあげて亡くなった方が教えてくださっている縁を、その方はまったく活かせていないという錯覚で終えてしまうことになると。
釈尊は、まことにそれは残念なことだと。目を覚まさなければならない、眠っている私がせっかくのご縁を生かせていないと。
「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さはわからない」との貴重な体験の中からの言葉を冒頭に紹介させていただきました。
ここには人間(他ならぬ、この私)の2つの悲しみが述べられています。
1つは文字通り「失う悲しみ」でしょう。
もう1つは(これこそ私どもへの最も大切な伝言だと思うのですが)失ってみなければ、日頃の平々凡々と思える繰り返しの日常生活が「有ること難い」、それこそ「奇跡」であるのに、そのことに気づけない。
それが知恵をいただいている人間であることの悲しみであると。「眠っているのは、お前(私)ではないか」と。
なぜなら、その大事なご縁を「安からにお眠りください」と言って他人事にしてしまっている、と。
仏法を聴聞してこられた先輩は、仏式で行われる葬儀こそ、教えを聞かせていただく場であると、身を運ばれていたに違いありません。
今でも亡くなった方を「仏さん」と呼ぶのは、こうした伝統の賜(たまもの)以外のなにものでもないのですから。

 

お庫裡から 2017年4月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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新しい学生服がハンガーから下がり、誓くんの中学入学の日を待っています。
3才の頃、『ナルニア国物語』(C.S.ルイス著)に夢中になり、「ぼくのこと、エドマンドと呼んで」と言い、戦う騎士エドマンドになりきって何日も過ごしていたことを、懐かしく思い出します。
3月で12才になった誓くんは、相変わらず夢見る少年で、頭の中は空想でいっぱいのようです。
時々聞かせてくれる空想は、アニメのキャラクターと映画のシーンの合体、仮想宇宙の戦いetc.etc.70才の頭では、とてもついていけぬ話ばかりです。
この夢見る少年が、この先ぶつかるであろう現実、出遇わねばならぬ自分自身、それらにどう悩み、どう苦しみ、どう育っていくのか、限られた時間の中で、そばにいて見守れるのは、老いの楽しみの一つです。
私の人生まだ途上ですが、後に続く若人に、是非一つ伝えておきたいことがあります。
悩みにぶつかったら、その悩みから逃げず、大事に抱えて、自分の心と向き合い続けてもらいたいと思います。
浅い悩みは、割合早く解決しますが、悩みの出どころが深いと、解決までに何年もかかるものです。
人間に限りなく近いチンパンジーは、悩むということがありません。
悩むというのは、人間だけに与えられた特権です。
悩みは必ず解決します(しかし、自分の思った解決ではないはずです)。
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」
(『歎異抄』第9章より)その呼びかけに「ハイ」と返事ができる時、そこにはじめて支えられている大地(浄土)が見えるのです。
私はその道を、今、歩んでいます。

今月の掲示板 2017年4月

テーマ:今月の掲示板

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  何ものにも頼らなくてもいいいのちを
  もうすでに
  私は頂いている
  そのいのちを
  あなたはどう生きてくれますか

  自分の思いを強く持っているから
  救いとは
  自分の思い通りになることだと
  疑いもせず信じている

  いのちが尊いとどこで言っていますか
  健康で長生きがその中味ですか
  比べるものではかっていませんか

  煩悩というものは
  人間をつかう
  起こした人間をつかう

  本当がわかってから
  後で間違いが知れるのではなしに
  間違っていたと気づいた時に
  本当の世界が私に受け取れる

  人間の基礎知力は
  悩むということです

  死んでいける言葉を持っている人は
  生きていける

  六字の名号(南無阿弥陀仏)は
  仏さまが我々に呼びかけられている言葉
  南無せよ
  おまえ、間違っておるぞ
  自分のまちごうた姿に目覚めよ

本堂に座って 2017年4月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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このところ、葬儀や法事についての考え方やあり方が変わってきている…と耳にすることが多くなりました。
家族形態の変化・人間関係の希薄化など様々な理由が挙げられますが、何より儀式を勤める意義がわからないことが一番の要因なのだと思います。
そうした中で、法事を勤めることを「亡き人からの願いに遇い、また仏様の教えやその呼びかけに出遇う、大切なご縁である」として、著者であるご住職が実際に法事の場で話された内容を掲載している本から一部を紹介します。

仏教が問題にしているのは私たちの心です。その心はどんなものか、私たちはどういう心で生きているのか、どういう心で人を見ているのか、どういう心で自分自身を見ているのか、ということを問題にするのです。
そういうことを前提に考えてみると、私たちが一番当てにしているのは「愛」や「優しさ」でしょう。
優しさという言葉は、聞いただけで心がなびくような気がします。
思いやりや愛というのは、優しさを含めて大切なことだと思います。
しかし、これを唯一絶対のものとして決めつけてしまうと人生を誤るかもしれません。
人間の愛の正体を知らないと、それを間違いないものと決めてしまう。
人間の愛は常に育てられ続けないと、いつでも崩れてその本質を失ってしまいます。
(中略)愛とか友情というものは、育てられないと別なものに成ってしまうのです。
(中略)この愛というものの正体は何かというと、それは「エゴイズム」ということになるのです。
エゴイズムということは「自我」です。そういうことを知っておかなければいけないと思うのです。
「愛」を初めから否定することはできませんが、人間がもっている愛というものの中身は何かということです。
だから忘れてはいけないことは、いくら優しい愛であっても、いつでも“自我の心”に転落してしまうことがあるということです。

覚るということ、目覚めるというのは心の問題です。
少し誤解されていますが、迷うのは心です。
取り違えるのも心です。
救われるのも心です。
ものをどう見ていくかでしょう。物事や人をどう見るかで、救われるかどうかが決まるのです。
どんな大切な人でも生きている間は、その人の本当の良さはわからないものです。
死んでしまってから、自分のことをこんなに考えていてくれたのかと、遅まきながら気づくのでしょう。
生きている時にわからなかったというのは、自分の判断する心が狭いからです。
私たちの大きな課題は、その思い込みという枠をいかに取り払うかです。
大切なことなので繰り返しますが、迷うのは心です。
物事を判断するのは心なのです。
身と心は繋がっているので分けられないのですが、どちらかといえば、物事を見たり、判断したりする心が迷いを作っているのです。
これは「識」といいまして、分別のことです。
この分別というのは、みなさんにもあります。
「分別がある」と世間ではいい意味で使います。
ですが、この人は大切な人、この人は大切でない人と分けるでしょう。
この人は絶対いてもらわないと困る人、この人はいてもらったら困る人と。そういうように、心が分別するのです。
「身近な者のことはわからない」とよく口にしますが、わからなくさせているのは、あなたの判断、分別ですよということです。
そういうことを仏教は教えているのです。
気がつかないのだけれども、一緒に住んでいて面倒くさいとか鬱陶しいと思った時でも“分け隔てる心が起こっていることに気がついてほしい”と常に仏様は、はたらきかけてくださっているのです。
また大切な人と別れることになった時、今まで我慢ばかりしてきたが、それはとても大事なことだったと後でわかることも多くあるでしょう。
今はわからなくても、そういうご縁があれば私たちは気づくことができるのです。
こう考えてみると、人間の判断力で全てがわかるわけではありませんね。
全体の半分か3分の2ほどはわかっても、残った重要なことがわかっていないのではないでしょうか。
そういうことを知ることは、とても大切なことだと私は思います。
(中略)自分の思い込みによって、他人を傷つけたり、自分を大事にできなかったりするのですから。
(『ご法事を縁として 亡き人からの願いに生きん』伊藤元 著 東本願寺発行より引用しました。)

今日も快晴!?2017年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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 お寺の新聞に目を通してくれている友人たちから、「お母さん、最近調子悪いみたいだね」「入院とか、大丈夫なの?」と度々声を掛けてもらうことが増えました。
元気で働き者の母も、もう70代のおばぁちゃんです。
度々調子を崩し、救急車を呼んだり寝込んだりと、思いがけないことが増えました。
そんな矢先に、一足先にお身内の方の介護が始まった友人と会いました。
それまで元気だった方が倒れられ、入院&手術の末、回復して退院されたものの、喉を切開して痰の吸入などが必要になったのだそうです。
食事も全てフードプロセッサーに掛けた流動食で、痰の吸入は家族しかすることが出来ないため、友人は自由に外出することが難しくなってしまいました。
足も不自由だったため、バリアフリーに向けて色々買いそろえたりと、友人もしばらくはばたばた忙しいようでした。
最初のうちは、(介護の生活リズムに慣れるのは大変かもしれないなぁ)と言う遠慮もあり、介護が始まって一月ほど経ってから友人宅を訪ねました。
(大変なんじゃないか。疲れているんじゃないか)、と心配しながらの訪問でしたが、友人の口から出た言葉は予想もしていなかったようなものでした。
「介護が始まって、周りの皆に『大変だね』って言われるけど、実はそうでもないんだよね。今まで出してきた食事は全部完食してくれて、何を出しても『美味かった』と言ってくれるから作り甲斐があるし、いつも『ありがとう。良いお嫁さんに来てもらえた』と言ってもらえたら、私も悪い気はしないよね。
介護してもらって、あそこがいかん、ここがいかんと文句ばっか言う人もいるらしいけど、あの人は全然そういうことは言わないし、人柄が良いからこちらもお世話出来るんだと思う。
確かに手は掛かるけれど、お世話をするのは嫌じゃない。
子どもたちも学校から帰ったら必ず顔を見に行って『ただいま』って挨拶をするようになったし、なんだかうちの家族、良い感じだよ。
私は今まで(いつ死んでもいいや)くらいに思っていたけれど、今は生きていてありがたいなって思える。
お世話もまだ全然やり足りないから、(やり切ったぞ!)って思えるくらい生きて貰いたい・・・。」
友人の口から出る言葉は、宝石のように光り輝いて聞こえました。
同じ経験をしていても、(なぜ私ばかりこんなに苦労しなければいけないのか)と不平不満を漏らす人もいるだろうに、「私は幸せだ」と受け止めることが出来る友人とその家族はなんてすごいんだろう。
家族の病気を通してばらばらになってゆく家もあるだろうに、このお家は、身内の方の病気を通して家族がより家族としての関係を深めているのだと思えました。
友人と二人、テーブルを挟んで互いに涙を浮かべながら存分に語りました。
母が調子を崩した時、母の背をさすりながら(東京にいる妹たちは、すぐに駆けつけることが出来ないんだ)と思ったら、隣で手助けすることが出来る自分は本当に恵まれていると思えました。
我が家にも、介護が必要な日が来るかもしれません。
友人の様に理想的な介護生活が送れると良いのですが、その時にならないと分かりません。
本当に切羽詰まった時に、どんな自分が顔を出すのか。
思いがけない自分と対峙するかもしれず、我が身の正体が暴かれるかもしれないと恐ろしいような気もします。

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守綱寺

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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