清風 2017年6月

テーマ:清風 【住職】

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今、いのちがあなたを生きている
Now Infinite Life of Amida is Living you.
2011年 親鸞聖人750回御遠忌テーマ
 


「人はなぜ、長命を願ってきたのだろう」と問えば、あなたはどう答えますか。
おそらく、「生はともかく、私にとって一人称の死は経験外のことだから…」という答えが返ってくるのでしょう。
しかし、延ばしても延ばしても、その先にはやはり死があることは事実です。死から帰ってきた人はいません。
時々、臨死体験なるものが死の経験談であるかの如く発表されることがありますが、発表できた限り生きていたのであって、やはり死んだのではなかったのでしょう。
分からねばならないことと分からなくてもよいこととの区別がつかない、ここに現代人の最大の不幸があると言わねばならないようです。
その区別がつけば、「わからない」ことは「わからない」としておけばいいのです。
さてそれでは、何のために長命でなければならないのでしょうか。
実は、死(あるいは死後)が不安なのではなく、むしろ生が分からないのです。
仏教、ことに浄土教はその意味を問おうとしています。
では、その意味とは何でしょうか。
念仏の教えを聞いてきた先達は、生きる意味をまじめに尋ねる人に応えました。
「あなたは、お恥ずかしいという言葉を知っていますか」と。
「いのちがある間は生かせていただくのです。いのちつきればこの世とお別れさせていただくのです。心配はいりません。いのちが与えられて私が生きているのであって、その逆ではないからです。」と。
「お与え」というのはいかにも頼りないように聞こえますが、実は最も積極的な生の在り様を表現する言葉のようです。いのちの事実は、すべてお与えなのです。
私にまで届けられたそのいのちは、実は私に何を望んでいるのでしょうか…と、私が「問われた者としてある」という目覚めからのみ、生きる責任・喜び、つまりお与えに応える生き方をしてきたのだろうかという、思いも及ばなかった生き方が始まるのです。
それこそが「お恥ずかしい」という生き方で示された、私どもには思いも及ばない応答であったのです。

仏事(葬儀・法事)に課せられていること

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仏事(葬儀・法事)に課せられていること(5)
「新たな出会いの場」としての葬儀…2

先月号の最後に、金子大榮先生が人間には「二つの悲しみ」があると教示されており、その内容は次のようであることを記しました。

① 失うことの悲しみ
② 日頃の暮らしを、当たり前としか受けとめられない悲しみ

①の「失うことの悲しみ」については、よく分かると思います。
では②の悲しみについてはいかがでしょうか。
東日本大震災で被災された方の、「失ってみなければ、日頃の暮らしの有り難さは分からないと思います」という言葉があります。
①の「失うことの悲しみ」から教えられなければ、「失ってみなければ、日頃の暮らし」が実は奇跡のようなことだとは気づかない(気づけない)、これが私たち人間の姿です。
日頃の暮らしが「有ること難い」、奇跡のようなことだとは誰も思わない(思えない)、これが、くどいようですが、私たちの日常です。

次に、金子先生は「人間に生まれたことの悲しみを知らないものは、人間に生まれたことの喜びを知ることはできない」と言われています。この「人間に生まれたことの悲しみ」とは、「なれば当たり前」としか思えないという事実を指しているのでしょう。
日常での経験から例を挙げれば、受験に合格した場合です。
合格した高校なり大学の入学式では、当然のことながら、合格した生徒ばかりです。
ここでは合格したことはまったく当たり前のことです。
そしてもう1つ例を出すならば、重い病気が治癒した場合です。
治療法が見つかり病気が治癒し、治って日常の生活が始まれば、その当初は嬉しいのですが、その嬉しさは3ヶ月も保たないようです。
「当たり前」になってしまうからです。
「人間に生まれたことの悲しみを知らない」とは、このように「願ったようになれば」、つまり合格とか病気から復帰するとかすれば、「当たり前」としか受けとめられない、その喜びは続かないということでしょう。
さらにまた幸せを求めて、もっともっとというわけです。
そうならなければ今度は被害者意識で、思い通りになったと見える人に「なぜ私だけが…」と比べて、今の私が置かれた状況は受け入れられないというわけです。

釈尊の言葉として、こんな言葉が伝えられています。
「どうかならなければ幸せになれない者は、
              どうなってでもその幸せは長くは続かない」
「どうかならなければ」とは「現在、自分の置かれている状況が変わる」ということでしょう。
それは当然のことながら、「今とは異なって、私の思って(願って)いるような状況(環境)に変わる」ことなのでしょう。
しかし、そうなったとしても、それは上にも記したようになってしまえば「当たり前」のこととして、何の感動ももたらさないことでしかありえなくなってしまう、つまり過去の思い出でしかあり得ないことになってしまうのです。
状況から状況へと追いかけている以外でしか生活の事実はない、空しいという感情が起こってくるこの事実こそが、実は大切な信号なのです。    (続く)

お庫裡から 2017年6月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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在ちゃんのピアノの先生から電話がかかりました。
母親に代わろうとすると「いえいえ、今日はおばあちゃんに」。何かと思ったら、「7月のピアノの発表会に在ちゃんと連弾で出てもらえないでしょうか」という依頼。
平田聖子先生が、親鸞聖人のみ教えに帰依され、聖人の和讃曲を多く作られ(まだまだ作っておられるさなかです)、それらの曲を守綱寺みのりコーラスも歌わせてもらっていますが、どの曲もどの曲もメロディーがとてもきれいで、ああ、あの曲が弾けたらどんなにいいかといつも思っておりました。
数年前よりご縁を頂き、先生のお宅にお邪魔して、お喋りをしているのかピアノを教えていただいているのか分からない状態ながらも、和讃曲の何曲かは引けるようになりました。
しかしながら、小さい頃からの素養の無さと老人力の加速で、せっかく弾けるようになっても、ちょっと間を空けると全く振り出しに戻ってしまうのです。
体調を崩して、ここ1年ピアノはお休みのままです。
でも、本堂にせっかくピアノがあるのだから、と法座のたびに「恩徳讃」を弾くようにしています。
何度も弾いているようですが、やはり間が空くので、ピアノの前に座るとどこか緊張して満足に弾けたためしがありません。
そんな私が連弾なんて、と少しためらいましたが、初めてのことをやってみたいという気持ちが勝りました。
在ちゃんの足を引っぱらないようにしなければなりません。在ちゃんと2人で、曲がどのように仕上がるのか、今から楽しみです。
思ってもいなかった楽しみが突然やってきて(その逆もありですが)、やっぱり生きているっていいな、嬉しいな、と感じています。

今月の掲示板 2017年6月

テーマ:今月の掲示板

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  日本国憲法 第9条
<第1項>
  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

<第2項>
  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。

   憲法第9条は、仏さまの願いです。


  大事なことってシンプルで
  毎朝目覚めて感謝することじゃない
  今日も自分は目覚めた
  自分は生きているってね(歌手 マドンナ)

  
  恵まれた生活に戻ると沢山の物を手にしているのに
  誰もが不満をもらし元気をなくしている
  私たち自身が腐りきっている(歌手 マドンナ)


  壊れた原子炉よりも手に負えないのは
  きっと
  当たり前という気持ちに汚染された僕らの心


  福島第1原発事故から6年たって
  事故の責任を誰もとらないのは
  誰が見ても異常だ


  国際的に危険とされている場所を「安全」と言い続け
  「復興」や「オリンピック」のスケジュールを優先して
  子どもたちや妊婦の健康配慮は無視する
  この現実は、さらに異常だ (広河隆一 フォトジャーナリスト)


  原発の象徴的意味
  人間の終わりが象徴されている
  人間を滅ぼすようなものを
  人間が発明していると(安田理深)

 

本堂に座って 2017年6月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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先日、小学校での「絵本の楽しみ方講習会」に参加しました。
持ち物として「自分の好きな絵本を1冊」を準備するにあたって、最近はウチの子どもたちに絵本を読む機会もほとんど無くなってしまったのであれこれと迷いましたが『わすれられない おくりもの』を選んでいきました。
この絵本は、年老いたアナグマが死んでいくところから始まります。
アナグマの死を知った森のどうぶつたちは、悲しみの中でアナグマとの思い出を振り返っていく…というお話なのですが、ここには「どう生きるか」という深い問いかけがある様に感じます。

アナグマはかしこくて、いつもみんなにたよりにされています。こまっている友だちは、だれでも、きっと助けてあげるのです。
それに、たいへん年をとっていて、知らないことはないというぐらい、もの知りでした。
アナグマは自分の年だと、死ぬのが、そう遠くはないことも、知っていました。
アナグマは、死ぬことをおそれてはいません。
死んで、からだがなくなっても、心は残ることを、知っていたからです。
だから、前のように、からだがいうことをきかなくなっても、くよくよしたりしませんでした。
ただ、あとに残していく友だちのことが、気がかりで、自分がいつか、長いトンネルのむこうに行ってしまっても、あまり悲しまないようにと、いっていました。(中略)
キツネが悲しい知らせをつたえました。アナグマが死んでしまったのです。
(中略)森のみんなは、アナグマをとても愛していましたから、悲しまないものはいませんでした。
(中略)アナグマは、いつでも、そばにいてくれたのに… みんなは、今どうしていいか、とほうにくれていたのです。
アナグマは悲しまないようにといっていましたが、それは、とてもむずかしいことでした。
(中略)みんなたがいに行き来しては、アナグマの思い出を、語りあいました。
モグラは、ハサミをつかうのがじょうずです。
いちまいの紙から、手をつないだモグラが、切りぬけます。
切りぬき方は、アナグマが教えてくれたものでした。はじめのうち、なかなか、紙のモグラはつながらず、ばらばらになってしまいました。
でも、しまいに、しっかりと手をつないだ、モグラのくさりが、切りぬけたのです。
その時のうれしさは、今でも、わすれられない思い出です。
カエルはスケートがとくいです。
スケートを、はじめてアナグマにならった時のことを話しました。
アナグマは、カエルがひとりで、りっぱにすべれるようになるまで、ずっとやさしく、そばについていてくれたのです。
キツネは、子どものころ、アナグマに教えてもらうまで、ネクタイがむすべなかったことを思い出しました。
(中略)キツネは今、どんなむすび方だってできますし、自分で考えだしたむすび方もあるんです。(中略)
ウサギのおくさんのりょうりじょうずは、村中に知れわたっていました。
でも、さいしょにりょうりを教えてくれたのは、アナグマでした。
ずっと前、アナグマは、ウサギにしょうがパンのやき方を教えてくれたのです。
ウサギのおくさんは、はじめてりょうりを教えてもらった時のことを思い出すと、今でも、やきたてのしょうがパンのかおりが、ただよってくるようだといいました。
みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。
アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。
みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。
(中略)アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていました。
アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも、楽しい思い出を、話すことができるように、なったのです。(後略)
(『わすれられない おくりもの』スーザン・バーレイ作・絵 小川仁央訳より引用しました。)

アナグマは特別な能力の持ち主でもなければ、目に見える様な財産を持っていたのでもないですが、残されたみんなはそれぞれに受け取ったものがありました。
今、そしてこれからの自分がどうあるべきか、何を伝え残していけるのか…目先の何かを手に入れることよりも、ずっと大切で、ずっと難しいことなのだと思います。

 

今日も快晴!?2017年6月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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この4月に次男が中学校に入学しました。
長男が3年生に在学しているので、特に心配することもなく送り出しましたが、予想通りというのか、予想を上回るエンジョイぶりです。
別の小学校から来た新しいお友達と仲良くなったり、部活を悩んだり、クラスの役員に率先して手を挙げたり、新しいことを素直に吸収し、楽しむ様子にほっとしています。
しかし、スマホやLINEによる生活の乱れ、いじめ、不登校等々子どもたちを取り巻く環境は厳しいものがあります。
そして、小学校の時には何も気にしていなかった「テスト」「点数」「順位」というものがあり、頭では「子どもの価値とテストの点数は別」と思うものの、やはり全く無関心では居られません。
そんなとき、たまたま手にした本『家族という絆が断たれるとき』(芹沢俊介著 批評社)が、非常にどきっとさせられる、今の自分にぴったりの内容でした。

<親に存在価値を否定された子どもたちの叫び>
「子どもに対する家族の寛容度がいちじるしく低くなってきている。
親たちの子どもに対する、自己を優先した非妥協的で容赦ない姿勢があらわになってきている。
家族の子どもに対する寛容度が低くなってきているということは、社会の子どもに対する寛容度の低下と連動しているに違いない。
・・・「ゼロトレランス(寛容度ゼロ)」という新しい生徒指導論が文部科学省によって打ち出されたことだ。
要するに、「問題行動」を繰り返す生徒に対して、具体的には「出席停止」や「体罰」といった「毅然とした対応」を取ること、これがゼロトレランスという生徒指導論の具体的な内容である。
…ところで、こといじめへの対応策としてみる限り、「ゼロトレランス」という生徒指導の効果はほとんどゼロに等しいことは明言できる。
・・・家族の寛容度の低下という問題に戻ろう。
《お母さん、私を他人と比べないで。テストの点で私の価値を決めないで。》
《お父さん、私がいるのに、部屋の電気を消さないで》。
この文章は、中学1年生300人が無記名で書いた『親への手紙』の中に見つけたものだ。
・・・子どもたちは手紙の中で、自分への親の接し方にやりきれない不満を抱えていることを明らかにしている。
・・・いい幼稚園から始まり、いい中学、いい高校、いい大学へと進む道を我が子が成就する事への期待と要求が家族を支配するとき、親は子どもの位置にしか関心を示さなくなる。
・・・親にとって最大の関心事がテストの点数であり、点数によって他人と我が子を比較したときの我が子の価値(順位)なのである。
・・・学校に通うということは、子どもはこの自分の位置を巡って激しい競争のただ中に立たされるということを意味する。
・・・だからせめて家庭は違う場であって欲しい、家庭は学校と同じであって欲しくない、というのが子どもの言い分である。
しかし、子どもは家庭内に存在するために、親の許容の限界点をクリアしなければならず、クリア不能と見なされた子どもは、容赦なく存在していること自体を否定されるのだ。
・・・部屋の電気を消すという行為は、単なる嫌がらせでは無い・・・価値の低い子どもはいらないという父親の意思表明となっている。」

このタイミングでこの本に巡り会えて、本当に良かったなと思えました。
偏差値のものさしの他に、「あなたがあなたであるということが、何よりも尊い」という仏さまのものさしがあれば、子どもたちを追い詰めずにすむのではないかと思えます。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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