『正信偈』のはなし 2013年5月

テーマ:『正信偈』のはなし 【住職】

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、必ず信心をもって能入す、といえり。」

「真実主体、本当の自己が分かった人」の誕生こそが、
ブッダ(目覚めた人)であったのです。
そこで、このこと(真実主体)を考えるために、
次のような問いを立ててみたいと思います。
近代以来「確立」されてきた「人間の尊重」「人間自身の神聖」
ということを否定する人はいないでしょう。
つまり「人間こそ究極の主体」であると。
しかし、その「人間自身」というのはいったい何なのでしょうか。
人であること、そして人として在ることそのことが、
私にとって本当に大切なことならば、
そこには何か、私の持ちもの如何によって左右されない
確かなものがなくてはならないでしょう。
自己内外の状況の変化に、
それ自体は微動もしない堅固な何かがあるはずです。
しかし、現代の我々はほとんど誰もそんなふうには考えません。
実際にあるのは、その時々の「状況」だけです。
「人間そのもの」とか「自己そのもの」とかいうのは、
ただの言葉に過ぎないと思っています。
我々の所有する一切 ―物質的なもの、精神的なもの、
我々の誇りとする一切の富― が、我々の手からすべり落ちてゆくとき、
一体誰が人として在ることを祝うでしょうか。
この人生を喜んで生きかつ死ぬことができるでしょうか。
本当のところ大切なのは「人間そのもの」「人として在ること」ではなく、
すでに獲得した、あるいはこれから獲得しうる諸々の富ではないでしょうか。
「人間そのもの」とか「自己そのもの」などというものは、その実どこにも存しない、
空無に過ぎないと考えているのではないでしょうか。
 まず、自己探しはこれだけの手続きを経て考えなければならない課題であるということのようです。
ここから初めて「真実主体」という課題の領域に入っていくことになるし、
法然・親鸞両師が人間の救済について「ただ念仏」と掲げていかれたのは、
「真実主体」について述べられたことだったのです。
(今回は『万人の事としての哲学』滝沢克巳著作集5(1973年法蔵館発行)を参考にしました。)

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