本堂に座って 2014年3月

テーマ:本堂に座って 【若院】

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今月は「病む」というテーマでお話された文章から引用をさせていただきます。
小児科医であり真宗大谷派の僧侶でもある梶原敬一先生のお話です。
先生は特に「精神」が病むことを宗教の視点で捉えてくださっています。

うつ病がこのごろ流行しているでしょう。
うつ病は心の病気かといえば違いますよ。
精神の病気です。身体と心と、もうひとつ心の底に精神ということがあるのではないかと思う。
うつ病は精神科で治すでしょ。
心療内科に行くのが心の病気です。
そういう意味では、そこでちょっと違う。
何が違うのかと言えば、うつ病と言うのは別に心の病気ではない。
心を支えているものの病気。何というか、生きる力みたいなものがあるでしょう。
何か悲しいことがいっぱいあっても、楽しめたり悲しめたりするのは、
心が辛いかもしれないけれども、精神が元気だからです。
精神が元気がなくなると、悲しいことがあってもぼーっとしてしまう。
楽しいことがあっても嬉しくなくなる。そういうことがあるでしょう。
うつ病はまさに楽しいことが楽しくなくなって、悲しいことも悲しむことが無くなって全部沈んでしまう。
精神の病気は何かということを考えたとき、精神を支えているのは、これがやっと宗教心やと言えるようになった。
精神とは何か。私は宗教心というふうに押さえたい。宗教心とは何か。
何か神様を拝んだり仏様をおがんだりするのは宗教心ではない。
仏教では宗教心のことを菩提心というんです。菩提心というのは、悟りを求める心です。
悟りを求めるといっても「はい、分かりました」みたいなことではない。
自分が迷っていることが分からないと悟りも何もないからね。
人生に迷っている人が、初めて迷うことから迷いを超えたいということが見えるのが菩提心です。
そういう意味では、宗教心と言っても人生に迷ったことがないと分からないですよ。
今、日本で一番精神を病んでいるのは、ある意味では子どもたちですよ。
子どもたちは明日が無くなっている。
夢や希望などと言うけれども、自分の未来は予定だと思っている。
何よりも今日の自分から明日の自分に一歩踏み出すということを忘れてしまっている。
小学生が中学生に、中学生が高校生になって、という風に思っているけれども、
その中で小学生が中学生になることは、子どもが大人へと、ある意味では自分を脱ぎ捨てていかなければならないでしょ。
そういう意識がなかったら生れたことにならない。
そこを意識したときに精神というものが生まれてくる。
だから精神というのは、自分の人生と自分の関係であるし、
そのことを以て人生と人生が向き合ったときに生まれてくるひとつの関係です。
この人生ということを失っている。人生とは道として歩いて行くのが人生です。
その人生が無くなることによって精神が非常に貧しくなってしまっている。
精神が貧しくなることによって、身体と心と精神のつながりがここで切れてしまっている。
私たちの時代は身体と心は健康になっているかもしれないが精神の健康が失われている時代です。
ある意味では、病んでいるのは精神そのものが病んでいるのであって、そのことを宗教心と言ったのです。
本当に人間がきちんと生きたいという欲求の根元にあるもの。これがすぐ萎える。
(「病むということ」真宗大谷派岡崎教区第17組教化委員会発行 より   
抜粋して掲載しました。)

梶原先生は心と精神を分け、心のつらさと精神の病気は違うものと捉えられています。
また「精神が病む」ことを「人生を失う」ことだと押さえてくださっています。
知らず知らずのうちに大人が子どもたちの人生を奪ってしまって、
結果として精神を病ませてしまっているのかもしれません。

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