仏事(葬儀・法事)に課せられていること

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  「清め塩」を巡って ~儀式が仏式で行われる意味~

葬儀では、印刷された会葬礼状が用意されていますが、この礼状には添え書きが付けられていることをご承知でしょうか。
それは「なお、真宗のご葬儀におきましては清め塩は用いませんのでご了承ください」という文面です。
縁のあった方が亡くなり、葬儀に出席されるのでしょう。
そういう意味では、葬儀は悲しい別れの儀式ではありますが、「清め塩はもちいません」と書いてあるのは、そこにもう一つの意味合いがあるからと思われます。
それは、一般的にその儀式(葬儀)が「穢れている」という認識があるからでしょう。葬儀は死者を縁として勤まるから、ということでしょうか。
亡くなったことは悲しいことですが、穢れたことなのでしょうか。
もし穢れたことならば、遺族にとって、そして参列された方にとって、とても無残なことと言わねばなりません。
なぜなら、遺族にすれば一日も生き長らえて欲しいと介護されていたに違いない親族を、亡くなった途端に今度は穢れたものとして扱うというのですから。
さらに、縁あって参列した方にとってはどうでしょうか。参列された方々にとってみても、必ず亡くなっていかねばならない方々ばかりです。
その時期は決まっていませんが。
そうです、死亡率100%です。
人間は現在を生きるものですが、未来と過去をはらんだ今(現在)を生きています。
そうだとすれば、未来が塩を撒かれるような「穢れたもの」に向かって生きるということになります。
これとても、無残なことといわねばならないでしょう。
なぜなら、死は未来でありますが、当来のことだからです。
釈尊は6年の修行の後、35歳でお覚りを開かれる(成道)のですが、そのときの言葉は「我は不死を得たり」と伝えられています(無死ではありません)。
死は完全燃焼(涅槃・ニルバーナ)を示すことであると。
いろいろな死に方があります。
例えば、事業の途中であった、と。しかし事業の途中なら途中で、やはり終わったのである、と。事業の途中というのは「未練なのだ」と釈尊は言われているのです。
事実は死があるのですが、その途中という判断に私が迷わされているのだと、やっぱり迷っているのだと。
では、どういう場合を想定して「終わった」と現代に生きる私どもは言えるのか、でしょう。
長寿を全うした場合でしょうか。それはいくつまで生きた場合を言うのでしょう。
大変難しい問題をはらんでいます。
安楽死・尊厳死という言葉があることをご存知かと思います。
その定義は次のようです(参照「文芸春秋」2017年3月号 P242)。

安楽死:回復の見込みのない病気の患者が薬物などを服用し、死を選択すること。
尊厳死:患者の意志によって延命治療を行わない、または中止すること。

生まれる・死ぬという場にも人間の都合・思いが介入して、その評価が先行するという時代(生命科学と言われる分野が開かれてきた)になってきたということでしょうか。
それでは、逆に言うと「安楽なる生」「尊厳なる生」とは、いったいどんな生・生き方をいうのでしょう。
例えば、いじめなどで自死した子がでた場合などに、よく「いのちは尊い」と言われるのですが。
尊い・尊厳である、それがいのちであるということがぐらついてきているということでしょう。
さらに議論を深めていくことが必要であると思います。
なぜなら、死ぬ時は自分で決めていきたいと言いますが、では誕生の時はどうだったのだろうと逆に思わせられるからです。(続く)

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
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