「教え」に聞く 2015年2月

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歴史は2度と繰り返さない。人がそれを繰り返す。

人間は間違いをするものなのだろう。例えば、政府は税金を使ってイラクへも派遣したのだから、その税金を使った結果について、国民に検証結果を報告する必要があるのだろう。2度とこうした間違いを起こさないようにするためにも。核兵器は無かったのにあると言ったのは、国民に嘘をついたということだから。
しかし考えてみると、国民の側にもこうした事態を見過ごしている、つまり結果から言えば、その事実(自衛隊のイラク派遣)を認めてしまっていると言える。
戦前の国家においては、国民の自由は大幅に制限されていた。治安維持法などによる恐怖政治下で国民は「見ざる、聞かざる、言わざる」の閉鎖集団にならざるを得なかった。
しかし戦後はどうか。2000年頃までは、戦争の惨禍を経験した人々が残っておられ、戦争を2度と起こしてはならぬという世論と、辛うじて第9条がどんな大きな犠牲の上に立案されたものかを知る人がおられた。
そして2015年の現在はどうか。基本的人権は、風前の灯火とはいえ、未だ残されている。しかし、風前の灯火であることは間違いない。前頁で述べた、閣議決定で第9条の骨抜き解釈が行われたように。
「日本国民」が、今こそしっかりしなければならない時かもしれない。
自国の過去の過ちを自分たちで考え続けることは、実に気が重いことである。しかし、国際社会から孤立しないためには避けて通れない課題なのではあるまいか。
小生は今から30年ほど前、中国やアジアの国から日本が戦争中にそれらの国で行ってきたことについて恨みを聞かされた国会議員の「幾度あやまればいいのか」という投げやりな言葉を新聞報道で知った。過ちを犯した日本の側においても世論調査などによれば、戦争の記憶は空襲・強制・食糧難など被害者の立場での記憶が多いと聞く。過ちを犯した側でも被害の記憶が強いのである。まして「殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす」という三光作戦が全土で15年間繰り広げられた中国などアジアの国々では、被害の記憶が強いのは当たり前と言えよう。
そういう記憶を忘れていく、あるいは忘れさせるのは、再び同じ過ちを次の世代にさせることになるに違いない。
今、ヘイト・スピーチを繰り返す人たちは、まさしくその例と言えよう。

「教え」に聞く 2014年12月

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一言で言えば、素晴らしいんじゃないでしょうか。
(佐藤芳之さん(1939~)ケニアで活動している日本人実業家)

今や、我が国では経済成長のみが政治の理念であって、他の理念は考えも付かない雰囲気です。
持続可能な経済成長ということが叫ばれても、原発による発電はクリーンなエネルギーというふれ込みが、いつの間にか主流となりつつあります。
経済成長のための原発が未来の子孫にどれだけの負荷を負わせても、
それについてはとことん議論しないで「見解の相違です」と簡単に片づけられる有り様です。

こんな折、ニュースの時間にテレビから、安倍首相が衆議院の解散・選挙を決めたということが流れてきました。
アベノミクスは失敗ではなかったか、その失敗を棚にあげて…といった後で、
その番組にゲストとして出演していた佐藤さんに「こうした、にわかな総選挙の流れについてどう思われますか?」と問いかけ、答えられたのが上記の一言でした。
「えっ?」と思った瞬間、「選挙ができて、政治家を選ぶことなんて」とコメントは続きました。
「民衆が、もうちょっと変えてほしいと思っても術がないのです」と。
アフリカでは、今も終身大統領制の国が多く、選挙はないという説明でした。

考えてみれば、我が国も選挙権は誰にでも与えられてはいなかったのです。
獲得して70年、「どうせ私1人くらいが選挙に行っても、政治は変わらない」のではなく、
私たち国民が変わらなければ政治はいつまでも変わらないでしょう。
政治を国民・私たちに取り戻す、せっかく与えられたチャンスです。
よく考えてこの機会を活かしましょう。
「残念です、宝の持ち腐れでは」という声が聞こえませんか。
選挙は、実は自分の、またこの国の将来を選ぶことです。
言うまでもなく、この国の主権者は私たち一人一人なんですから。

この国の憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う
(日本国憲法 第12条)

「教え」に聞く 2014年11月

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経験を欠いた欲望は無闇に昂進する。戦闘経験を持たない者の戦闘意欲は、
実態の過酷さという抑制の根拠を内部に持たないために、徒にひたすら燃え上がるばかりである。
(藤田省三著 『全体主義の時代経験』みすず書房)

今、日本の都市(東京・京都・大阪など大都市)で行われているヘイトスピーチ
(差別扇動表現。人権原則の核心である人間の尊厳と平等を否定し、
個人や特定の集団の社会的評価を貶めるべく、他者に向けられる形態のスピーチ。
国連人種差別撤廃委員会の定義)について、この委員会が日本政府に法規制の必要を何度も勧告してきています。
例えば「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」といった内容の言葉が、連日ネット上の書き込みで飛び交っているのです。
こうした人間の心と社会を傷つけるヘイトスピーチは、ジェノサイド(人種絶滅)への第一歩であることを歴史は証明しています
(ジェノサイド … 例えば、第二次世界大戦下、ナチスが国家の事業としてユダヤ人をガス室で数百万人も殺したことを指す)。
在特会(在日朝鮮人の特権を許さない会)のデモは、ハーケンクロイツ(ナチスの籏印)の籏を持ち、
ガスマスクをして「殺せ、殺せ、朝鮮人」から出発して「新大久保を更地にしてガス室を作れ」などと叫んで白昼にデモをしています。
ドイツやフランスなら、その場で逮捕だと言われています。
朝鮮大学の前では「おい、お前ら出てこいよ。殺してやるから」とやっている現場に警官がいるのです。
現行法でも、これは脅迫になるのだから逮捕してもいいのに、日本の警察は動きません。
こうしたデモのビデオを見る限り、「差別主義者たちが警官に付き添われているとしか見えない」のが事実です。
私どもの言葉は、心の表現なのでしょう。
ヘイトスピーチを大勢で徒党を組んで、しかも大声でしなければならないその孤独さに、
今の我が国を取り巻く閉塞感というか、その閉塞感を他人が恐怖を持つような言動でしか解消できないことに無残さを感ずるのは私だけではないと思います。
「実態の過酷さ」、つまり在日韓国・朝鮮人の人が何故我が国に存在しているのか、
そしてまた、徒党を組んだ人たちから一斉に「殺せ、殺せ」と叫ばれることがどんな恐怖感を与えることになるのか、
想像もできないとするなら、そしてそういう人たちを我が国の司法が抑制できないとするなら、
その雄叫びは「徒に燃え上がり」、この国を滅ぼしていくに違いありません。

「教え」に聞く 2014年10月

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私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか。
(ゴーギャン)

この言葉は、ゴーギャンの絵(ボストン美術館所蔵)に付けられているタイトルです。
今、私たち日本人にとって、安倍首相から憲法第9条の解釈について(主権者である国民に諮ることなく)「現在の憲法にも“集団的自衛権”は認められている」として閣議決定によって「売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこう」としてます。
「他人の喧嘩に飛び込んでいこう」というのは「縁もゆかりもない国に行って、怨みもない人たちを殺してこい」ということです。そうすれば逆恨みされるに決まっています。
軍隊は最終的に国民は守れませんでした。それは先の戦争において、我が国の場合、満州・沖縄で経験したことです。
満州では、上陸する米軍と戦うという名目で軍は内地に送られ、何十万という邦人が無防備のまま取り残されました。
沖縄の方たちは、日露戦争の折にはバルチック艦隊が沖縄のすぐ近くを北上したにも関わらず攻撃はされませんでした。軍隊がいなかったからです。
先の戦争では日本軍がいたために壊滅的攻撃をされ、防空壕では現地住民は足手まといになるからと、他ならぬ軍隊に自決されられるか追い出されたのです。
一体、私どもの国・日本はどこへ行こうとしているのでしょうか。
東日本大震災における原発事故、特に放射能漏れは今も解決していないのに、安倍首相による「アンダー・コントロール」の宣言、そしてその安倍内閣による上記のような内容を持つ憲法第9条の解釈変更という暴挙を見せられて、この国の未来を子どもや孫にどう残していくか、今それこそ、このゴーギャンの言葉どおりに「私たちは何者か」問われているのだと思います。
私たちは経済成長を続けるために、全くそのことのためのみに生きているのでしょうか。
未来の子孫から、今まさしく問われているのでしょう。
経済は大事です。しかしそれは一体何のためでしょうか。
今のような、自然を破壊し、人間という字が表わしているような(関係存在として家族と隣人との)関わりを開いていける余裕を無くし、追い立てられて「健康・幸福・無事・安全・生存」を犠牲にしていく経済成長(金、金、金と、まるで金さえあればと生きること)のみが、生活者の生きてゆく目標なのでしょうか。
一度ここで考えてみようと、安倍さんから問いを投げかけられているのでしょう。
                             (この項つづく)

「教え」に聞く 2014年9月

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石も土も、木も草も、鹿も鳥も虫も、人間も神も、すべて森の客としての振るまいをしなければならぬのであって、
何者といえども森の主になることはできない。
森ははじめからあったのである。一切に先だって森はあった。
木も草も鹿も虫も、そして人間もあとから森にやってきた。神といえども後から森にやってくるのである。
(ピグミーに伝わる言い伝えより。 ピグミー … アフリカの原住民の一種族)

最近の科学の知見によれば、地球が誕生し(46億年前)、生命がその地球上(海)に誕生して(38億年前)、
更に人類が誕生(500万年前)して、現代人が誕生(15万年前)したと言われている。
ピグミーの伝説が語るように、人間は最後にこの地球に参上したのである。要するに新参者である。
その人類が、万物の霊長(ダーウィンの進化論の影響?)と勝手に自称して、この地球の主人のごとく
、主(あるじ)のごとく振る舞っておよそ1万年、そして近代文明…いわゆる科学の成果をフル活用して、
たかだかこの300年、人類は、地球始まって38億年ほど掛かって作られた化石燃料をあと数百年で使い果たすと言われ、
その燃料の代わりとなる次世代燃料として、1面にも記したように、完全に安全に処理できる方法もない核燃料を使い、
代替エネルギーと位置づけ、使用してきた。
そして、今回の福島の事故である。
今、わかった事は、福島の被害が終息できるあてもないままに、被害終息宣言がされているということであった。
アンダー・コントロールと。あらためて、右肩上がりで経済成長を続けなければならないという常識を、
少しく考えてみてはどうだろう。かつて「満州は生命線」と言って戦争を始め、
アジア全域に被害を広めてしまった経験にかんがみて。
今や日本は、世界第3位の豊かな国である。
しかし誰も、その豊かさの中にあっても安心できないでいることも事実のようである。
つまり、生活の豊かさのみで、こころ豊かに生きることは困難なことらしいという課題を突きつけられたのが、
21世紀の日本(そして、人類)であったとは言えないだろうか。
1面に紹介したP・キュリーの指摘する「英知」とは、生活の「豊かさ」は人間の生きる目標なのか?
それは手段ではないのか?という問いを我々に投げ掛けるものである、ということであろう。

「教え」に聞く 2014年6月

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日本の安全保障は、唯一軍事力増強(戦争へ)の道しかないのか?

安倍政権には、勢いに乗っての政治決着ではなく、国民的な中身のある議論を期待したい。
一方で、安倍晋三首相自身がかねて抱いている自己愛に偏した歴史認識については心配している。
(略)中国、韓国と関係改善の環境ができつつあると思っていたら、安倍首相は昨年末に靖国神社に参拝した。
首相は、過去の戦争について「我々は悪くなかった」という思いが強いようだ。
結果的に、中韓との関係を再構築ではなく、悪化させてしまった。
(略)靖国参拝は国内の一部の人を喜ばせるだけで、国際的に日本の評価を上げる行動ではなかった。
(五十籏頭 真 元防衛大学学長 朝日新聞2014・5・16朝刊)

 首相の靖国参拝が、なぜ中国・韓国から抗議されるのか。
そして、アメリカからもヨーロッパの国からも失望したと言われるのか。
それは、東京裁判でA級戦犯と判決を受け戦争責任を問われ死刑に服した人を、後に英霊として靖国神社が祀ったからです。
敗戦国・日本が国際社会に復帰するために侵略の責任をとらせた人(戦争の最高責任者・戦犯)が英霊として祀られている神社に、
その国の責任者である首相が参拝すれば、何も反省していない行動と、侵略された国・国民からすれば映るでしょう。
「自己愛に偏した歴史認識」は、いわゆる「おともだち」には通じても、
厳粛な国際社会には許されない信義違反ということなのですから。
慰安婦問題にしてもそうでしょう。
世界中どこの国でも慰安婦問題はあったし、戦争すればそれはついてまわるものだ…
つまり、慰安婦問題を日本だけが問題にされるのは心外だ・世界の常識だ、ということを、
例えばNHKの会長(安倍首相が任命)が発言する。
これではまるで、小学4年生くらいの子が、僕だけではないよ、A君もB君もみんなやっているよ、
という弁解をしたのと同じレベル。赤信号、みんなで渡ればこわくない、と。
 自分の過去の行為について、事実に立って検証すると「自虐史観」と言ってそれをさせないようなことは、
もうそろそろ「自己愛に偏した歴史認識」で、おともだちの間だけの不毛な論理であることに、
目を覚ましてもらわねばならないのであろう。
わが国が国際社会に通じる道義をわきまえた論理を尽くして、東アジアに友好関係を呼びかけるリーダーになろうとするなら、
少なくとも靖国参拝に固執しない覚悟を安倍首相は持たなくてはならないのではなかろうか。
 

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守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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