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「和讃」に聞く 2017年1月

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清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。

新たな年を迎え、本年も相変わりませず、よろしくお願いします。
この欄では親鸞聖人が念仏のいわれ(徳)を記してくださった和讃(詩)を紹介しているのですが、新年ということもあり、和讃に「一切の有碍にさわりなし」とか「畢竟依に帰命せよ」と詠われている念仏の世界について、坂木恵定師の言葉を紹介させてもらいます。(『崇信』平成2年1月号より)

  充 足
人は
色んなことを
一生懸命やっているが
一番大事なことを
抜きにして
やっているに
ちがいない
何か起こると
あわてふためいて
泣き叫ぶより
外にない
自分の思いを皆
とられて 裸に
なるから だが
そこにこそ充実がある
    ○
子どもの時からの
つきあいで
あんな落ち付いた
慎重な
人は稀で
その人の前では
自分など
はずかしい限りだと
思っていたが
その人 大通りの
道を渡って
自動車にはねられ
即死した
之には
一言もない

慎重もいいが
事実は
そんなものを
けとばして
時が
まっしぐらに
すすんでゆく

人間は 失敗や
成功やと
さわぎたてて
いるが
それから
何を得たか
勿論
慎重な生活
態度をけなす
わけではない
併し失敗は勿論
慎重も共に
浮いているで
ないか

失敗も
成功も
どちらでも
頂戴出来る
何ものかを
感得できないか

朝から晩まで
そこに現れたものは
何にもないのだ
それそこにと
指指すものが
指指している
だけのことだ
何にもないのだ

之を一切の
有碍にさわりなしと
誰かが叫んだ

「和讃」に聞く 2016年11月

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清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
(註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

今月も、まず1面の原稿を書きながら、ふと思い起こしたことがありました。
あらためて一遍上人の歌を思い返してみてください。
何か感じられたでしょうか…というか、私どもは慌ただしい日常生活の中でこんなことを考えるだろうか、とは思われませんでしたか?
いつも書いていることですので、またかと思われるかもしれませんが、経典の言葉を紹介します。
「心の為に走せ使われて、(こころ)安き時あることなし。」(『仏説無量寿経』下巻)
経典は2000年前に編集されました。
親鸞聖人は800年前、一遍上人は700年前を生きられた方です。
そして現代の私ども…いかがでしょうか。
「心の為に走り使われて」(使って、ではない)、やはり「安き時あることなし」ではないでしょうか。
また、そうやってきた結果はどうなっているのでしょうか。
いきなり、現代の課題です。
国連は地球温暖化対策なる警告を出しています。
「生物多様性条約」「持続可能性な経済成長」などです。
いったい、人間は進歩しているのでしょうか?全然変わっていないと思われませんか?
変わったのは暮らしぶりです。
しかしそれも「もっと、もっと」です。つまり暮らしぶりには「心の為に走り使われてきた」その結果が正直に現れているのでした。
さて、上の和讃です。
あなたは何を「畢竟依=究極の拠り処」としていますか?そんなことを考えたことがありますか?
そうです、「こころのために走り使われて、安き時あることなし」ですね。
「我が心」は、結局のところ「勝他・名聞・利養」すなわち他と比較してというわけですから、安き時あることなし、一喜一憂です。 
ここでもう一度、1面の最後に紹介した法語カレンダーの言葉をかみしめてください。
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」
(続く)

「和讃」に聞く 2016年10月

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 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
 清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
 (註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

仏教では、業は行為の意味で、つぶさにはその行為に身・口・意の三つの行為を考えています。
ここでは「意」、つまり「心で思う」ことです。私たちは心で思ったことに縛られて生きています。
例えば、道路の信号はいつでも変わりなく青・黄・赤と替わって、交通の整理をしているのですが、急いでいるときは青に替わるのが遅いように思います。
どうでしょう?そんなに急がなくてもいいときは、赤信号で止められても、周囲を見渡したり身体が休まって、よかったとホッとくつろいだ気分にさえなったりするのですから。
いらいらするのは信号のせいではなく、こちらの心の有り様に依るのだと分かる、これがここでは「この光に値遇すればこそ、すべての繋縛も除かれる」と言われる所以です。
信号が縛るのではなく、私の心の有り様によって繋縛になったりそうでなかったりするのに、我々はその心の構造からなかなか逃れられません。

 1面の盲目の少年の例からすれば、この少年は、東井先生が「光の世界を生きさせて貰っている私なんかよりも、もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています」と感嘆しておられるように、目が見えないにもかかわらず、この心の構造に惑わされていないのです。
 東井先生が讃嘆せられている、この全く目の見えない少年が存在している境涯について、「もっと明るい光の世界を生きさせて貰っています」と言わしめた光こそ、この和讃(5首目)より後の13首目の和讃で、「超日月光」と詠まれている念仏の徳と言えるのでしょう。
(続く)

「和讃」に聞く 2016年9月

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光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

さて、先月号のこの欄で紹介した鶴見俊輔の言葉を巡って、もう少し記すことにします。
それは、このような言葉でした。

「南無阿弥陀仏」という言葉は、死ぬまでの長い年月、この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらないと思われるほどの、くりかえしの使用にたえる。
それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ。

<「くりかえしの使用にたえる」言葉>
人間にとって、言葉というのは ―人は「人間」と言われているように― 何より大切な「人の間」、つまり私と他の人との間(関係)を開くツール・道具と言えます。
南無阿弥陀仏は道具であるというわけです。
さて一方、南無阿弥陀仏は「名号・名」と言われてきました。名とは名前です。
それは先ず仏(ぶつ・ほとけ)の名であると。
仏とは、一切衆生(生きとし生けるもの)を救いたいという願いを掲げた人を指す名です。
「一切衆生」といっても、それは当然、先ず人間を指すと言えるでしょう。何故なら、自己・自分・私といろいろに言われているのですが、もう少し具体的に申せば、今・ここに・生きてある私を指すと言えるからです
。私が入らない一切衆生と言っても、それは「そういう話」でしかないからです。
救われねばならぬ実存・現実存在としてある「私」であると見出された、南無阿弥陀仏こそが本当の私の名であり、あなたの本当の名でもあると。
ここが仏教の大変面白い考え方なのです。

その鍵になるのが、「それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ」と言われている、その「南無」の語のメッセージをどう了解していくのか、ということです。
ここに仏教史の中心課題があったのです。
今から、一つ世界を作ろうというわけではないのです。
すでに一つ世界に生きているのに、それを忘れてしまっていたと気づく、その世界が「光雲無碍如虚空」とここに現されているのです。

 

「和讃」に聞く 2016年8月

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光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ

和讃を冒頭に掲げていますが、今回はまず、南無阿弥陀仏について面白い視点からの表現を紹介しようと思います。

「南無阿弥陀仏」という言葉は、死ぬまでの長い年月、この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらないと思われるほどの、くりかえしの使用にたえる。それが長すぎると感じられるほどにもうろくするならば、「南無」というだけでよいそうだ。
(註※)

どうでしょう。よく現代の状況をふまえた感想だとは思われませんか?言葉も消費される、とにかく全てのもの・ことを消費していく、それが進歩というか、近・現代の私たちが忙しさに追い立てられている原因ではないでしょうか。
そこで鶴見さんは「くりかえしの使用にたえる」言葉、消費されることのない(言葉としての)南無阿弥陀仏-六字の名号に注目されたのだと思います。
言葉、それは情報です。現代はその特徴を情報社会と定義しています。
明日になれば古くなり見捨てられていくもの、それが情報です。
いや、知った後から古くなっていくものが情報なのでしょう。
今や、通勤電車の中で新聞を読む人はほとんどいません。
スマホ・ケータイ派であるからです。
最新の情報を得ることが、現代を生きる人間の主たるしのぎとなっているから、とでも言えるでしょうか。
とすると、「この言葉さえおぼえていれば他の言葉はいらない」という指摘に注目したいと思います。
和讃もその「くりかえしの使用にたえる」南無阿弥陀仏の讃嘆にほかなりません。
親鸞その人こそ、法然上人に出会い、そして生涯を尽くして、その指摘の如く「ただ念仏」の世界を、それこそ「死ぬまでの長い年月」をこの言葉にかけ「他の言葉」はいらない生涯を送った人と言えるからです。
ここに金言「真理は単純である」を思わざるを得ません。(この項つづく)

註※)『神話的時間』鶴見俊輔著 58頁 1995年9月 熊本子どもの本の研究会刊
鶴見俊輔 ―
戦後の我が国にあって、一市民として、またリベラルな立場から、生涯現役として思想界に大きな影響を与えた。(1922~2015・7・20)
『鶴見俊輔集』全12巻(筑摩書房)他、著書多数。
(2016年7月21日記 一周忌の命日の翌日に。南無阿弥陀仏・合掌)

 

「和讃」に聞く 2016年7月

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光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ
<意訳>
 普遍の光明は、何ものにも碍げられることなく(無碍光)すべてのものに恵みを与え給う。不思議の弥陀をたのみとせよ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P17から引用した。)


「和讃」に聞く・第12回(2016年5月号)で、阿弥陀仏の徳を12の光(譬え)で表現されていることを述べて、その中で重要な譬えが超日月光であると記しました。
これは、仏教が人類へのメッセージとして、自己の立ち位置に目覚めることが最大の利益であることを明らかにした、重要な点です。
例えば、道元禅師(禅宗の開山)は「仏道を習うというは、自己を習うなり」と言われています。
仏教に限らず、哲学の祖と言われるソクラテスもやはり「自己を知れ」と言っています。
仏教では「人身受け難し、今すでに受く」とも言います。
しかし、「自己を習う」とか「人身受け難し」とはふだんは言いません。
なぜでしょうか。もう分かったこと、当たり前のこととして済ませていけるからでしょう。
実は、それこそが大問題だというのです。

当たり前と済ませていれば、その生活姿勢は次のような事態になると、法然上人に「勝他・名聞・利養」という訓戒があります。
「勝他」というのは、文字通り「近くにいる他人には負けられない、ライバルを作る根性」のこと。
「名聞」というのは「有名になりたい、嫉む根性」。
「利養」とは「私だけいい目にあいたい、被害者意識から脱却できない」。
これが凡夫といわれる所以であり私の偽らざる相である、この3つの欲求に突き動かされているのが私の日ごろの暮らしである、と。
悩む、あるいは苦悩する、それは日常意識の下部に作動している(例えば、上記の3つの根性(煩悩)に依る)と見出したのが、仏教と言えます。

しかし、なぜ悩むのでしょう。
もっと言えば、なぜ悩めないのか、なぜ悩まされているのかと、問いを立て替えたのが仏教史上の先師(先輩)方であったわけです。
それが一面の最後に紹介した言葉「そこを、動くな。そこで、考えよ」であったのです。
そしてその時、不思議にも「有碍にさわりなし」という、自由にして自在なる世界が用意されているにもかかわらず、その世界を外部(比較の世界・自己の外)に求めていた自分を知る―それだけが、苦悩・悩むことが私に与えられている意味だったのです。

「和讃」に聞く 2016年6月

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光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし
光沢かふらぬものぞなき 難思議を帰命せよ
<意訳>
普遍の光明は、何ものにも碍げられることなく(無碍光)すべてのものに恵みを与え給う。不思議の弥陀をたのみとせよ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P17から引用した。)


人間はちっとも進化していない、いやむしろ退化しているということでしょうか。
この和讃では「一切の有碍にさわりなし」と言われています。
我々は進化し、万物の霊長であるといいながら、「将来に希望が持てない、お先真っ暗」と、それこそ老いも若きも壮年も、日暮らしが何となく重いというか、晴れ晴れとしない日常を過ごしているのではないでしょうか。
「長生きはめでたい事なのか」(昨年の「清風」12月号1面)と、自分が「生まれたことの意味を問う」という経験を、83歳にして初めて持たれた男性のように。

何故なら、現代は「間に合うか、間に合わないか」と効率と能率だけが要求され、そういう問いを持つことすらできません。
人間観の機械化が進み、いのちをいただいて生きるということはどういうことなのかを考える事、そのことのみが、むしろ「人間に生まれた」と言えることであるとは、わからなくなった時代なのでしょう(仏教では、いのちが濁っているという意味で、末法といいます)。
悩むこと、これは煩悩を自己として生きている「その錯覚に気づけ」という、いのちからの呼びかけであったのです。
我々の「いのちの母胎である自然」を、我々が利用する資源としか見ることができない、つまり謙虚さを持ち得ない、そういうあり方が問われていると言っては言い過ぎでしょうか。
「覚る」とは仏の智慧のハタラキ(法)に気づかされること、「信心を得る」とは真実主体を得ることであったのに、今やまったく人間からはわからない、つまり「難思議」と言うしかないという意味なのでしょう。
我々の持つ知の偏頗なあり方(未熟さ)に疑問すら発することができない事実、つまり人間の奢り、無明性・煩悩だけが欠け目なく備わった動物(人間の事実)を照らし出すハタラキ、それが仏の智を光明としてここで表現されているのは、人間の性(さが)の悲しい事実を指し示すことではないかと思われるのですが。

 

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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