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今日も快晴!?2017年9月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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東京に住む妹たちと姪っ子ののの葉ちゃんがお盆休みに帰省してきました。
1歳3ヶ月になったののちゃんは、泣く姿も食べる姿も寝る姿も、何もかも「可愛い」の一言。
もはや孫のような感覚です。
とりわけ、食べ物を手にしたときの満面の笑顔は最高で、ついつい食べさせてしまうので、こちらに滞在中目に見えてお腹が膨らみ、りっぱなメタボ体型になってしまいました。
仕事で一緒に来られなかったパパに写真を送るたびに「またののちゃん膨らんだね・・・」と言われる始末です。
ただ、こちらがどんなに「おいで」と手を伸ばしても、ののちゃんにとって私は知らないおばちゃんなので、1週間の滞在中、最後まで私が抱くと大泣きしていました。
そんなに悪いおばちゃんじゃないんだけどな~。
こちらに来てから数日後、ばぁばには大分慣れてきたので、妹二人がののちゃんを置いて出掛けることになりました。
最初は目新しいおもちゃに夢中になり、ママが自分を置いてこっそり出掛けたことも気づかないようでしたが、途中から(あれ?そういえばお母さんがいないぞ?)と気づいたようでした。
その時から、目に見えてののちゃんの表情が硬くなり、笑顔が消えました。
泣かずに黙々と遊んでいるのですが、どことなく緊張感を持って過ごしているのです。
(ここは安全な場所ではあるみたいだな。この顔も、何となく見たことがある気がする。仕方が無い。今日は我慢してここで過ごすとするか・・・)とでも思っていたのでしょうか。
妹が帰宅した瞬間、いつもの笑顔が戻ったので、「やっぱりお母さんといるときと表情が違うね~」と話したところ、「やっぱりねぇ、一緒に過ごす時間が長い人が『お母さん』なんだと思う。私も保育園に夜の7時頃迎えに行くけど、最初は(あれ?この人誰だっけ?)みたいな顔をされるもん」と言うので、なるほどと思いました。
何らかの事情で親と別れる子どももいるので、実の親でなくても側で愛情を持って関わってくれる人がいれば、子どもは育ってゆくのだと思います。
ということは、実の母親であっても「私が産んだから」と関わる努力を怠ると、子どもの方からそっぽを向かれる可能性もあるのかなと思いました。
子育ては、関わり合ってゆく時間の積み重ねの中で、互いに親となり子となってゆくのかもしれません。
会社の都合もあり、妹は生後半年でののちゃんを保育園に預けて会社に復帰しました。
同じ会社にお勤めのご主人も子育てに協力的で、一生懸命関わってくれているのですが、帰りが遅かったり長期の出張があったり、「流行のワンオペ育児だ」と妹が嘆いていました。
妹も、一日仕事を終えて疲れた身体でお迎えに行き、さらに帰宅後、一人で家事に育児では本当に大変だと思います。
もう少し近かったらいくらでも預かったり手助けすることが出来るのに、さすがに東京ではどうすることも出来ません。
マンションの一室で、妹が一人で途方に暮れる日もあるんだろうなぁと想像すると胸が締め付けられます。
でも、ママといる時間を濃密に過ごすののちゃんと、保育園に預かって貰っている時間も、保育士さんがへとへとになるくらい力いっぱい遊んでいるというののちゃんの様子を聞くと、(ああ、妹たちが全力で自分を育ててくれていることをののちゃんはちゃんと分かっているし、きっと大丈夫)と思えます。

今日も快晴!?2017年8月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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友人のピアニスト、白神由美子さんの紹介で、8月22日の守綱寺絵本読み聞かせの会「夏休みお楽しみ会」で、絵本ミュージカル「ひまわりのおか」チャリティコンサートを上演することになりました。
守綱寺ファミリー合唱団のメンバーも増えて、子どもたちも少しずつ大きくなってきた今、新しいことにチャレンジ出来る良いチャンスだなぁと思います。
「ひまわりのおか」は、津波で子どもたちを失った8人のお母さんが、丘の上にひまわりを植えて育てているという実話を元にした絵本です。
ソプラノ歌手の方が参加して下さったり、クラリネット&パーカッション&ピアノの「クピパトリオ」さんが加わって下さったり、普段とは違った雰囲気で本番がとても楽しみです。
是非大勢の方に足を運んでいただきたいと思います。
守綱寺が関わっている「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト」では、原発事故による放射能の被曝から子どもたちを守りたいと願う福島のお母さん達の声を聴かせていただきましたが、津波によるこうした被害の声も、また震災の現実です。
「3.11を忘れてはいけない」と思うものの、日常生活の中で、どうしても震災も津波も原発事故も忘れがちな自分がいます。
地震や津波の被害を忘れないということは、自然の前では、人間というのは無力でちっぽけな存在であることを忘れないということ。
原発事故を忘れないということは、「科学の力で何でも思い通りになる」というおごった心は間違いだということを忘れないということだと思います。
丁度たまたま図書館で手にした司馬遼太郎さんの「21世紀を生きる君たちへ」という本の中の文章がとても素晴らしかったので、一部を紹介したいと思います。
『人間は ―くり返すようだが― 自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。―人間こそ、いちばんえらい存在だ。という、思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
同時に、人間は決して愚かではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。このことは、古代の賢者も考えたし、また十九世紀の医学もそのように考えた。ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、科学の事実として、人々の前に繰り広げてみせた。
二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。「人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。』

本堂に座り、仏さまに手を合わせるということは、「願いが叶いますように」という意味合いではなく、「また自分は大事なことを忘れていました」という気付きなのだと思います。

今日も快晴!?2017年7月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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子どもたちが幼い時は、「いかにゲームを持たせないようにするか」に心を砕きましたが、学年が上がると、次は「いかにスマホを持たせないようにするか」に問題が移ってきました。
幸い、子どもたちはまだ「スマホが欲しい」と言いませんが、『スマホ廃人』(石川結貴著 文芸新書)というタイトルの本を読み、改めて、(この先色々な問題が出てくるだろうなぁ)と恐ろしくなりました。

『…関東地方の保育園の元園長先生の話として、「子ども自身のスマホ利用の問題もさることながら、私が危機感を持つのは母親のスマホ依存です。登園時も帰宅する際も、ずっとスマホを使っているお母さんが増えてきました。子どもはお母さんのお迎えを今か今かと待っているのに、まともに顔も見なければ話しかけようともしません。運動会やお遊戯会のときも、子どもは一生懸命がんばっているのに親はスマホに気を取られている。こんな状態で家庭での様子はどうなのか…。」
…園児が泣きはらした顔で登園した際に理由を尋ねると、「朝、ママのスマホの邪魔をしたら、玄関の靴で思い切りぶたれた」としゃくり上げたこともあった。
「現場を見たわけではないので真偽の程はわかりませんが、日頃の様子から察するに有り得る話だなと思います。
私が園内でお子さんの報告をしている時でも上の空、LINEのメッセージ交換をする母さんもいるくらいですから。
保育士の話をきちんと聞けない人が、家で子どもの話をしっかり聞けているでしょうか。」
…子育て支援センターなどに勤務し、育児相談などを担当する保育士は、より強い不安を訴える。
「私たち保育士に悩みや不安をぶつけてくれるお母さんはいいんです。そうやって発信してくれればこちらも対応できるし、何よりお母さんが自身の悩みや現状を意識できる。自覚があれば問題を解決するための行動も取れますが、そうなる前にスマホで別のことに意識を向けてしまう。もちろんそれで気分転換にもなりますから、プラス面もあるでしょう。ただ、子どもと向き合うのを避けているような、目の前の現実から意識が飛んでいる感じを一部のお母さんから受けるのです。」
たとえばベッドの上の赤ちゃんが泣いている最中にLINEの着信があったとき、母親はためらいもなくスマホを手にする。
メッセージを交換している間、赤ちゃんは泣き続けているが、まるで「壁」を作ったように我が子に反応しない。』

「子どもが思い通りにならない」という状況から簡単に目をそらし、スマホで逃避することの繰り返しによって、親と子双方の育ちにとって大切なものが阻害されているように感じられてなりません。
悩み、苦しみ、自分の頭で考え、工夫して問題と向き合うことは、もう「古い」のでしょうか。
また、日本小児科医界が「スマホに子育てさせないで!」というポスターを作成したところ、子育て中の母親から「上から目線で言われても困る」「エビデンス(証拠・根拠)がないのに断定しないで欲しい」と否定的な声が相次いだそうです。
子育て中の母親が孤立しがちだったり、「子どもが騒ぐと周囲の迷惑だ」という不寛容な社会の空気が悲しいなと思いますが、自らを正当化する母親達の声も恐ろしく思えました。

 

今日も快晴!?2017年6月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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この4月に次男が中学校に入学しました。
長男が3年生に在学しているので、特に心配することもなく送り出しましたが、予想通りというのか、予想を上回るエンジョイぶりです。
別の小学校から来た新しいお友達と仲良くなったり、部活を悩んだり、クラスの役員に率先して手を挙げたり、新しいことを素直に吸収し、楽しむ様子にほっとしています。
しかし、スマホやLINEによる生活の乱れ、いじめ、不登校等々子どもたちを取り巻く環境は厳しいものがあります。
そして、小学校の時には何も気にしていなかった「テスト」「点数」「順位」というものがあり、頭では「子どもの価値とテストの点数は別」と思うものの、やはり全く無関心では居られません。
そんなとき、たまたま手にした本『家族という絆が断たれるとき』(芹沢俊介著 批評社)が、非常にどきっとさせられる、今の自分にぴったりの内容でした。

<親に存在価値を否定された子どもたちの叫び>
「子どもに対する家族の寛容度がいちじるしく低くなってきている。
親たちの子どもに対する、自己を優先した非妥協的で容赦ない姿勢があらわになってきている。
家族の子どもに対する寛容度が低くなってきているということは、社会の子どもに対する寛容度の低下と連動しているに違いない。
・・・「ゼロトレランス(寛容度ゼロ)」という新しい生徒指導論が文部科学省によって打ち出されたことだ。
要するに、「問題行動」を繰り返す生徒に対して、具体的には「出席停止」や「体罰」といった「毅然とした対応」を取ること、これがゼロトレランスという生徒指導論の具体的な内容である。
…ところで、こといじめへの対応策としてみる限り、「ゼロトレランス」という生徒指導の効果はほとんどゼロに等しいことは明言できる。
・・・家族の寛容度の低下という問題に戻ろう。
《お母さん、私を他人と比べないで。テストの点で私の価値を決めないで。》
《お父さん、私がいるのに、部屋の電気を消さないで》。
この文章は、中学1年生300人が無記名で書いた『親への手紙』の中に見つけたものだ。
・・・子どもたちは手紙の中で、自分への親の接し方にやりきれない不満を抱えていることを明らかにしている。
・・・いい幼稚園から始まり、いい中学、いい高校、いい大学へと進む道を我が子が成就する事への期待と要求が家族を支配するとき、親は子どもの位置にしか関心を示さなくなる。
・・・親にとって最大の関心事がテストの点数であり、点数によって他人と我が子を比較したときの我が子の価値(順位)なのである。
・・・学校に通うということは、子どもはこの自分の位置を巡って激しい競争のただ中に立たされるということを意味する。
・・・だからせめて家庭は違う場であって欲しい、家庭は学校と同じであって欲しくない、というのが子どもの言い分である。
しかし、子どもは家庭内に存在するために、親の許容の限界点をクリアしなければならず、クリア不能と見なされた子どもは、容赦なく存在していること自体を否定されるのだ。
・・・部屋の電気を消すという行為は、単なる嫌がらせでは無い・・・価値の低い子どもはいらないという父親の意思表明となっている。」

このタイミングでこの本に巡り会えて、本当に良かったなと思えました。
偏差値のものさしの他に、「あなたがあなたであるということが、何よりも尊い」という仏さまのものさしがあれば、子どもたちを追い詰めずにすむのではないかと思えます。

今日も快晴!?2017年5月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】

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この春休みに、岡崎教務所との共催による「福島のみんな!遊びにおいでんプロジェクト(若院さんのお話参照)」が開催されました。
守綱寺でも、3月27日から30日までの4日間、福島からMさん一家をお迎えすることになりました。
福島のお母さん達と同じように子育て中の身であること、地震、津波、原発事故、未曾有の災害に「何かしたい。けれど、何が出来るだろう?」と模索していたので、ここ豊田に居ながらお手伝い出来ることがあるなんて、本当に幸せだ、ありがたいと思いました。
おいでん開催中は、お寺で活動している「寺っ子クラブ」のメンバーが中心になり、企画から準備から様々な面でお手伝いをしてくれました。
27日は福島からの移動にあててもらい、28日は読み聞かせ会の「春休みお楽しみ会」を開催していたので、劇や合唱、朝市でのお買い物を楽しんで貰いました。 
午後からはMさんを囲んでお話会を開き、福島での今の生活について聞かせて頂きました。
除染しても捨てる先が無いから、庭先にシートなどに覆われて除染した土がそのままになっている、子どもたちが知らずにその山で遊んでしまう。
雨が降ると線量が上がる、排水溝の側溝なども掃除が出来ない、隣のリンゴ農家さんからリンゴを頂くけど、除染や放射能対策を十分にしていないようなので、とても子どもには食べさせられない、甲状腺検査を受けたものの、全国のデータなどと比較が出来ないから「みんなそうだよ」「心配無い」と言われても、本当にそうなのか不安は残る。
聞かれたら「保養に行く」と答えるけど、自分からは言わない。
表だって放射能などの話はしにくい、etc・・・といった福島の現状を聞くことが出来ました。
Mさんの「何も変わっていない」という言葉が、胸に重く残りました。
政治家や外にいる人間が、安易に「安全だ」「いつまで放射線と言っているのか」など言うべきではないと思います。
夜は引き続き、寺っ子クラブ有志でカレー作りでした。
お米や野菜を差し入れして下さる方があったり(河合明子さんがたくさんの食材を差し入れして下さりました。ありがとうございました)、朝市に出店されていた「てくてく農園」さんが卵を差し入れして下さったり、おかずを届けてくれる方があったり、皆さんの温かい気持ちのこもった美味しい晩ご飯でした。
29日は、三河名物の五平餅を作って一緒に食べ、夜は守綱寺の竹やぶで掘った筍を使って山菜おこわを頂きました。
30日は、「野草を食べる会」を企画して、守綱寺の境内を回ってカラスノエンドウ、タンポポ、ツクシ、よもぎなど集めて調理して皆で頂きました。
どの日も、入れ替わり立ち替わりたくさんの人に関わってもらえました。
子どもたちは守綱寺の広場を駆け回り、土手滑りや鬼ごっこ、焚き火など思う存分外遊びを楽しみました。
すっかり打ち解けた子どもたちが仲良く遊ぶ様子は感動的でした。
朝は本堂の縁の雑巾がけ、参加者の皆で夕方のお勤め、食前の言葉の唱和など、お寺ならではの活動を通して、仏さまの願いを感じながらの活動になったのではないかと思います。
「福島」や「放射能」が、テレビの中の遠くの世界の出来事ではなく、自分の友達が暮らす場所の問題なんだと思えることが、無関心や無理解を無くしてゆく第一歩だと思いました。
原発いじめの問題も、同じようにしてでなければ解決できないのかなと思いました。

 

今日も快晴!?2017年4月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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 お寺の新聞に目を通してくれている友人たちから、「お母さん、最近調子悪いみたいだね」「入院とか、大丈夫なの?」と度々声を掛けてもらうことが増えました。
元気で働き者の母も、もう70代のおばぁちゃんです。
度々調子を崩し、救急車を呼んだり寝込んだりと、思いがけないことが増えました。
そんな矢先に、一足先にお身内の方の介護が始まった友人と会いました。
それまで元気だった方が倒れられ、入院&手術の末、回復して退院されたものの、喉を切開して痰の吸入などが必要になったのだそうです。
食事も全てフードプロセッサーに掛けた流動食で、痰の吸入は家族しかすることが出来ないため、友人は自由に外出することが難しくなってしまいました。
足も不自由だったため、バリアフリーに向けて色々買いそろえたりと、友人もしばらくはばたばた忙しいようでした。
最初のうちは、(介護の生活リズムに慣れるのは大変かもしれないなぁ)と言う遠慮もあり、介護が始まって一月ほど経ってから友人宅を訪ねました。
(大変なんじゃないか。疲れているんじゃないか)、と心配しながらの訪問でしたが、友人の口から出た言葉は予想もしていなかったようなものでした。
「介護が始まって、周りの皆に『大変だね』って言われるけど、実はそうでもないんだよね。今まで出してきた食事は全部完食してくれて、何を出しても『美味かった』と言ってくれるから作り甲斐があるし、いつも『ありがとう。良いお嫁さんに来てもらえた』と言ってもらえたら、私も悪い気はしないよね。
介護してもらって、あそこがいかん、ここがいかんと文句ばっか言う人もいるらしいけど、あの人は全然そういうことは言わないし、人柄が良いからこちらもお世話出来るんだと思う。
確かに手は掛かるけれど、お世話をするのは嫌じゃない。
子どもたちも学校から帰ったら必ず顔を見に行って『ただいま』って挨拶をするようになったし、なんだかうちの家族、良い感じだよ。
私は今まで(いつ死んでもいいや)くらいに思っていたけれど、今は生きていてありがたいなって思える。
お世話もまだ全然やり足りないから、(やり切ったぞ!)って思えるくらい生きて貰いたい・・・。」
友人の口から出る言葉は、宝石のように光り輝いて聞こえました。
同じ経験をしていても、(なぜ私ばかりこんなに苦労しなければいけないのか)と不平不満を漏らす人もいるだろうに、「私は幸せだ」と受け止めることが出来る友人とその家族はなんてすごいんだろう。
家族の病気を通してばらばらになってゆく家もあるだろうに、このお家は、身内の方の病気を通して家族がより家族としての関係を深めているのだと思えました。
友人と二人、テーブルを挟んで互いに涙を浮かべながら存分に語りました。
母が調子を崩した時、母の背をさすりながら(東京にいる妹たちは、すぐに駆けつけることが出来ないんだ)と思ったら、隣で手助けすることが出来る自分は本当に恵まれていると思えました。
我が家にも、介護が必要な日が来るかもしれません。
友人の様に理想的な介護生活が送れると良いのですが、その時にならないと分かりません。
本当に切羽詰まった時に、どんな自分が顔を出すのか。
思いがけない自分と対峙するかもしれず、我が身の正体が暴かれるかもしれないと恐ろしいような気もします。

今日も快晴!?2017年3月

テーマ:今日も快晴!? 【若坊守】
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6年生の次男が、小学校を卒業するまであと一ヶ月を切る時期になりました。
身長はこの一年間で10センチ近く伸びて、ランドセルが飾りのようにちょこんと背中に乗っています。
毎朝玄関で「行ってらっしゃい」と見送るのですが、ランドセル姿もあとわずかと思うと、じんわり涙がにじみます。
小学生男児らしく、毎日誰か友達と遊ぶ約束をして来て、6時間授業で4時半頃に帰宅した日でも「遊びに行ってくる!」と飛び出して行きます。
そうかと思うと、自分の部屋にこもって扉を閉めて本を読みふける時間も増えました。
目立って反抗期というわけではありませんが、時折(何を考えているのかな?)と思うこともあります。
私は次男について、大変な思い違いをしていました。
自分が三姉妹だったので、友人から聞きかじった話をお手本に、「男兄弟はライバル関係にあり、仲が悪いわけでは無いけれど、成長したら進んで連絡を取り合うことも無くなり、滅多に口も聞かなくなる」といった兄弟像をイメージしていました。
幼い頃は、「物静かな長男と元気な次男」というイメージだったので、極力違った方面のことをさせて、二人が同じ土俵で勝負することが無いように、互いに違った分野で力を発揮できるようにと考えていたのです。
ところが、(活発な次男に向いているだろう。
左利きを活かせるし)と連れて行ったスポーツ教室は、1年半ほどで「やりたくない」と言いだし、あっさり止めてしまいました。
次に次男が自分から「これをやりたい」と言い出したのは、長男が通っていた「クルマづくり究めるプロジェクト」というものづくり系の活動でした。
中学に入ってやりたい部活は、長男と同じ「ロボット部」だと言います。「兄弟で競わせるのは止めよう。違うことをさせよう」というこちらの意図に反して、次男は長男と同じことばかりやりたがるのです。
最近になって、ようやく(ああ、次男は長男が大好きで、憧れのお兄ちゃんで、同じことがやりたいんだ)と気づきました。
二人は本当に仲良しで、喧嘩もせず、毎日学校から帰ると二人で延々と楽しそうに好きな漫画や小説、アニメや音楽のことなど話し続けています。
子どもは、親の思いを超えて育ってゆきます。
(この子はこういう子だろう)という固定概念を易々とぶちこわして、思いも付かないような面を見せてくれます。
毎日、「今日の晩ご飯は何~?」と言いながら帰宅する子ども達に、あと何年ご飯を作ってあげられるのだろう?
「次はこれ読んで~」と、毎晩寝かしつけの読み聞かせをねだる子どもに、あと何冊本を読むことが出来るだろう?
次男は4月から一体どんな中学生になるのだろう?
学校で過ごす時間も増えて、部活、テストの成績、反抗期等々、親としては(こんなはずじゃ無かった!)と思うことも多々あるとは思いますが、「どんな風になっても大丈夫。どんなあなたでも愛していて受け止める」と、言ってあげられるかどうか。
まだまだ親が試される日々が続きます。
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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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