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お庫裡から 2017年3月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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人権の研修会が名古屋で開かれ、豊田から参加した女性3人が昼食をとっていたとき、中の一人が「ネェ、世の中に平等って本当にあると思う?」と聞かれました。
私は「比較できるもので考えると平等はないですね」。
するともう1人が「いのちよ、いのちは平等よ」と。
それで私は「人はその課題において平等であり、その成果において個性的である」と前田俊彦の言葉を紹介したのですが、午後の講義の時間が迫っていたので、会話はそこで終わってしまいました。
その数日後、私は夕方から体調が崩れ動けなくなりました。
白湯も受け付けず、お腹も下って、5時間後、やっとベッドに移動できました。
ベッドに入ると、物を考え始めるのが私の悪い癖です。
そんな状態でベッドに入ったのに「課題とは何か」という問いが大きく私の頭の中を占領してしまったのです。
どれくらいの時間思索していたのかわかりませんが、ついに一つの答えにたどりつきました。
「課題は、二本の足で立てる大地が見つかること。」そうだった、そうだった。
自立するとまでは言うけれど、自立するにはその立脚地、大地が一番必要だった。
するとすぐに「大地が見つからなければ、何を付けても転んでしまう」という言葉が浮かびました。
わー、何て素晴らしい言葉に巡り会えたのだろうと、布団の中で小躍りする程の喜びに包まれました。
それでも時々気分が悪くなるので、「寝込むれば 老いがすり寄る すきま風」こんな気弱な俳句も浮かんできます。
また気分が治まると、先の言葉に続くように「大地が見つかれば、どんなご縁も杖となる」という言葉が浮かび、あっ完成したと思いました。
「課題は2本の足で立てる大地を見つけること。大地が見つからなければ何を付けても転んでしまう。
大地が見つかれば全てのご縁が杖となる。尚子」
嬉しくて、この言葉を何度も味わっているうちに、朝になっておりました。

お庫裡から 2017年1月

テーマ:お庫裡から 【坊守】
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年末になると、あちらこちらから喪中葉書が届きます。
こちら様も、この方も、お身内を亡くされて、ああ、ああと読ませていただきますが、中にはどなたの喪中かわからない時や、こんな遠縁の方の喪中、と驚くこともあります。
我家からお葬式は出さなかったけれど、9月に母が亡くなり、11月に甥が亡くなっているということは、もしかして私って喪中?世間の決めごとにうとい私は、頭をひねっています。
お釈迦さまのお話の一つに…
子どもを亡くした母親から、生き返らせてくれと頼まれたお釈迦さまは「身内から一人も死人を出さなかった家から芥子の種をもらってきなさい」と言われました。
子を生き返らせたい一心で、母親は一軒一軒必死の思いでたずねまわりましたが、そんな家はついに見つかりません。
そこでやっと母親は、生まれた者は必ず死ぬという法に目覚めたというお話です。
法(必ず死ぬ)ということは知っていても、誰でも死ぬのはイヤです。
たとえ「いつ死んでもいい」と思っていたとしても、「それでは今から」なんて言われたら、あわててしまいます。
テレビをつければ、実年齢は〇〇才でもこんなにきれいになれます、という美容のコマーシャル。
足腰が痛くても、このサプリメントを飲めば元気ハツラツ、どこまでも歩けます、と元気で健康でなければならぬとばかりの広告があふれて、老人が老人になっていくことが、さも悪いことのように錯覚させられて、死がどこか遠くへ追いやられているように感じます。
死者を前にした時、私は何の為に生きているのか、私の生きる課題は何なのか、お前も死ぬぞ、いのちあるうちにその課題を見つけてくれ、そう問われている。
その問いの歩みが始まった時、その死が私を導く灯となって、私の行く手を明るく照らしてくれる…それが喪中に学ぶべきことのように思います。

「和讃」に聞く 2016年12月

テーマ:お庫裡から 【坊守】



清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ

<意訳>
清浄な弥陀の光明には対比するものとてはない、この光に値遇すればこそ、すべての繋縛(けばく)も除かれる。
究竟の依りどころたる弥陀をたのめ。
(註)畢竟依 … 究極の帰依処。最後の依りどころ。
(意訳は『親鸞和讃集』(岩波文庫 ワイド版)P18から引用した。)

一面の「当たり前」についての文章の最後に、「いただいたいのちは、私(人)に何を望んでいるのでしょうか」と記しました。
皆さんはどう思われますか?「いのちは大切だ」「いのちは尊ばれなければならない」と言われますし、また自分で言いもします。
では、いのちは尊いと本当に思っているのでしょうか?また思っているとすれば、なぜその尊いいのちを殺したり自死をするということが、進歩した現代においても頻繁に起きるのでしょうか?
まぁそれはくちばしの黄色い青二才の言うことであって、しばらく放っておけば他へ議論が移っていくと高を括られている、状況まかせにされてしまっている様です。
国民の側(私)も、人間観としていのちが尊いと言いながら、実際には自分にどれだけ付加価値を付けるかということになっているのではないでしょうか。
付加価値を付ける…受験はその近道と考えられているのでしょう。学歴は、付加価値としてはまだまだ評価の高いものとされています。
かつては受験戦争とまで言われたものです。
付加価値(健康・肩書(地位、役職)・財産などなど)とは、比較しての話ということでしょう。
つまり、いのちも比較の上であって、いのちそのものが尊いということは全く問題にもされません。
それが現代の偽らざる人間観だと言っては言い過ぎでしょうか?
ものではない「いのち」そのものは、いったい人間(私)に何を願っているのでしょうか。
今一度、「問いかけるもの」という面からではなく「問われているものとしての私」という視点が回復されねばならないのでしょう。
その時、一面でとりあげた「当たり前にある日常のありがたさ」に帰らされるというか、平凡な「日常」が私にとっての新たな光源となってくるのでしょう。
では「畢竟依」とは何を指すのか…。「忙しい」、他ならぬこの私も、また相対的なことを「畢竟依だ」としているということでしょう。

お庫裡から 2016年12月

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11月15日夜、我家に悲しいニュースが飛び込んできました。
甥(姉の長男)が亡くなった、という知らせです。
脳腫瘍という病名がわかって約1年、今年のお正月明けに手術をし、良くなってくれるものと思っておりました。
しかし、願いはなかなか叶わず、秋に入ってから再入院をしておりました。
甥は私たち姉妹の初子なので、私にとっても誕生の時からとても印象深く、たくさんの記憶が残っております。
小さいときから理解力に優れ、気性は穏やか、時にはおちゃめで、我家の娘たちにとっても、頼もしい誇らしいお兄ちゃんでした。
名古屋大学から大谷大学に進み、インドへ留学、また名古屋大学へ戻り、結婚後はアメリカのハーバード大学で学び、若くして名古屋大学の准教授になったと聞いた時は、「いとこの中の誉れ星だね」と、娘たちと喜び合ったものです。
頼りの長男に先立たれた悲しみに、義兄は一回りも二回りも小さくなったように思います。
姉は悲しみを内に秘め、気丈にふるまっています。
ふとんに横たわる甥の姿は、鼻高く、眉凛々しく、ああこの子はこんなにハンサムだったんだ、こんなにも背も高かったんだと、大人になっていた甥を(小さいときの記憶が強すぎて)再発見する思いです。
中学、高校の2人の子どもと妻と両親、102歳の祖母を残し、学究半で彼岸に旅立つことが、48歳の甥にとって、どんなに無念であったことかと思うと、涙が止まりません。
本当に惜しいことだ、残念なことだと涙があふれます。
彼岸では、9月に逝った母が驚きながら「あれー、俊也、早く来たねぇ」と父と一緒に手を取り合って迎えてくれたことでしょう。
私も必ず。
待っていてください。

お庫裡から 2016年11月

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私は、9月の末に心房細動の治療を受けました。
退院の時、担当医に「今後、生活面で注意するようなことはありますか」とお尋ねしたら、「何もありません」と即答されました。
そこで私は、大いなる錯覚をしてしまいました。
退院したら、即、元通り元気と。
しかし実際は、たった5日間の入院で、体力はガクンと落ち、身体は動かず、動けば息が上がる、カテーテルを入れた場所は、つり痛む。
ああ、完全に老人にギアが入った、と思いました。
考えてみれば、今月私は古稀になります。
古来稀な年令の域に入るということです。
私って老人なんだ。
そうか、老人なんだ。
これからは老人の自覚を持って、周りに「お願いします」「ありがとう」「助かります」、そんな言葉をたくさん使って……。
退院後初の診察日。
先生に「体力が落ち、息も上がる」と言うと、先生は「ああ、たくさん焼いたからね。徐々に戻ってきますよ」との返事。
先生の言葉に、「私は老人だ」としおらしいことを言っているのも今のうちだけかもしれない、と思ったり、いかんいかん、老人の自覚、自覚と言い聞かせたり、そのどちらもいのちいただいている上でのこと、めでたいことです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

お庫裡から 2016年10月

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9月12日、朝6時過ぎ、弟から「母が今、亡くなりました」と連絡が入りました。
実は私は12日から不整脈の治療を受けることになっていました。
それは1ヵ月前からわかっていたので、9月に入ってから母が弱ってきたと聞き、どうぞ12日からの1週間は持ち堪えてもらいたいと念じておりました。
とにかく、私の病院へ連絡し、返事を聞いて葬儀の日を決めるということになりました。
連絡がつき、折り返し病院からかかった電話は「担当の医師が熱を出し、今週の診療はお休みとなりました。
今、予約の方にキャンセルの電話を入れているところです。あなたのお薬は22日に切れますので、その日に来てください」とのこと。
私に「来い」という母の思いが勝ったという気持ちで、フリーになった私は、その日の午後から母の枕元に座り、15日と決まった葬儀まで、存分に母との別れの時間をいただくことができました。
穏やかな顔で静かに眠っているような母の姿。
何度も頬をさわったり手を握って「お母さん、楽になられましたね。92年の人生、ご苦労さまでした。私を生んでくださり、育てていただき、私の子どもたちを慈しんでいただき、ありがとうございました」と耳元で話しかけました。
その都度、まぶたが動いたような、胸元が上下したような、「あれ、お母さん生きている」と顔に触れると、やっぱり母は冷たいまま眠っておりました。
お棺に入ってしまうと、母は遠くへ行ってしまったようで、あれこれ思い出されて、涙がこぼれました。
通夜、葬儀、還骨、初七日、御堂に「正信偈」が響きわたり、私もまた、母と同じ浄土に還らせてもらう身との思いが強くなりました。
母の法名は、光蓉院釋尼和慶。
9月に逝くことを知っていたような名をいただいておりました。
「芙蓉花 御堂ゆるがす 正信偈」 尚子

お庫裡から 2016年9月

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父が亡くなって、はや16年目の夏が巡ってきました。
「みんなで揃って、本山へ納骨に行こな」「行こな」と言っていた母は、弟が定年になった頃から痴呆が進み、納骨どころではなくなりました。
そして92歳の今は、施設のお世話になっています。
しょっちゅう会いには行けませんが、たまに施設を訪ねても、母はいつも目を閉じていて言葉を発せず、会話ができません。
こちらが話しかけた時、間のよく「あー」と声が出ると「あっお母さん、わかった、わかった」と私の話した内容が母に通じたと、こちらが一方的に喜ぶだけで、母は何も喋らないので、本当はどうなのかは何もわかりません。
弟から「お父さんの17回忌の命日に姉弟揃って納骨に行こう」と声が掛かり、8月18日に弟夫婦、姉、私達夫婦、そしてたまたま京都に居た次女も加わり、6人で父のご本山への納骨に立ち会うことができました。
納骨の読経を聞きながら御影堂の聖人の姿を見上げると、ここに初めて座った高校1年生の夏からのことが思い出され、その都度にそこには父の姿があったと気づき、涙がこぼれました。
ここ(御影堂)は聖人が私に「念仏申せ」と呼びかけていてくださる場所、今日よりは父まします所として、より近しく感じられる場所となりました。
85歳で逝った父の死にゆく姿、母の現在の姿、「尚子よ、よーく見ておけ」と両親から老病死の実践教育を受けております。
その全てが「念仏申してくれよ」との呼び声に感じられます。
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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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