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『正信偈』のはなし 2014年5月

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どうかお前は
敵、味方、ともに救われる道をあきらかにしてくれ
-漆 時国-

かって「アメリカくしゃみをすれば、日本は肺炎になる」といわれたのに、今はどうであろう。
自動車に代表されるように、「肺炎を起こしたアメリカに、日本が手をさしのべる」といった状況が出てきています。
米国から武器(戦闘機等)を購入することによって日米間の経済摩擦を緩和しようとさえしています。
この事実を見れば、ソ連脅威論によって誰が儲けているかという発想が大事だと思います。
このような経済大国で実力を持った日本の動向は、世界の平和の方向を大きく左右する立場にいます。
世界平和のために、日本はどうすべきかという観点から考えていく立場が確立されなければならないのです。
戦争のために(殺し合いをするために)資源を無駄使いできる程、宇宙船地球号は豊かではありません。
奪い尽くすことによって幸せを得ようというのは、生きている事実に反することです。
これだけ日本が豊かになれたのは、日本の国民の勤勉さのたまものでしょうが、アメリカ等、世界各国の人々のお陰です。
アフリカ・アジア等で、まだまだ飢えに苦しんでいる人がいっぱいいます。
日本の能力をもっとこれらの国々の人にお返しせねばならんと思います。
これらの国々での内戦は、ほとんど飢えが原因で起こっています。
対外援助活動のための方法等を総合的に研究する機関を設置して、それぞれの国の事情に応じて、
ヒモ付きでない援助をする研究を今から始めたらどうでしょう。
このようなことを決めた日本を、それでも侵略しようとする国は侵略させたらいいと思います。
戦うよりは、犠牲ははるかに少なくてすみます。
暴走族や受験地獄をくぐり抜けた学生が、何のために勉強するのか、
その意味がわからんといってエネルギーを無駄遣いしているのも、
世界の人々に日本がどういうように役に立とうかということになれば、青年は一人ひとり、
自分の適性に基づいてその能力を伸ばし、生き甲斐を見つけることでしょう。
現代の日本の悲劇は、豊かさに方向が与えられていないということではないでしょうか。
まさしく「何のための豊かさか」であります。
もし、他人の為に役に立つという人間のいのちの本然の叫びにおうた必然の道を見出せば、日本はよみがえるに違いありません。
農地解放も国の政策があってできたのです。
こんなことくらい日本の政府がその気になればできます。
自衛隊の人達も、それぞれ身につけた技術等を活かす道は、これら援助国にいくらでもあるはずです。
米もどんどん作り、これを全部国が買い上げ、アフリカ等飢えた国で、
それらの国の人と相談して立ち上がっていく手立てとしてあげたら、日本がどれだけよみがえるかわからないと思うのですが。
(参考文献『国家エゴイズムを越えて』和田重正 著 柏樹社 刊)
(今回の文章は『清風』107号(S56(1981)年6月号)より再掲しています。)

『正信偈』のはなし 2014年4月

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どうかお前は
敵、味方、ともに救われる道をあきらかにしてくれ
                     -漆 時国-

漆 時国は、法然上人(幼名 勢至丸)の父親で、現在の岡山県・美作の国の押領使(代官)だったのですが、
隣領の押領使に殺されてしまいました。
その臨終の枕辺で、敵討ちをしようという勢至丸に、父親の遺言したのがこの言葉だったといわれています。
敵討ちをすれば、結局、殺しあいを断ち切れません。
しかし敵討ちが当たり前とされ美談にすらなった当時とすれば、これは今では考えられない程、
勇気のある発言だったというべきでしょう。
この遺言をうけて、法然上人は出家し、比叡山で勉強することになるのです。
敵とは、自分を殺すものということでしょう。
そうすると、敵・味方ともに救われる道とは、自分の中にも敵の質を持っていることを見出すということであります。
自分にとって都合の悪いものは殺す(排除したい)という、自分中心の心を持っているということです。
さて、現代はどうでしょうか。今世紀、人類は二度迄も殺しあい(世界大戦)をしてしまいました。
人類という視点に立つならば、これは内ゲバ(殺しあい)です。
この犠牲者に報いる道は、もう二度と戦死者をつくらないということに尽きるでしょう。
つまり、我々は今、敵・味方ともに救われる道を見出すことこそ、本当に求められていることだといえるのです。
敵・味方ともに救われる道を見出すという課題は、日本が(核兵器を含む)武器でもって自分の国をまもろうという、
いわゆる国防論が声高くさけばれている今日、日本国を本当に愛するが故に、
武器をもっては国をまもれないという次元を私共に開いてくれている気がします。
何故なら、私の生きているということの実相は、私以外の他なるものによって生きているというのが、本当の相だと思うからです。

数年前迄、中国を敵視していた日本は、中国がそんなに政策を変えたとは思われないのに、
1972年の日本政府の方向転換により、今や友好国となりました。これは大変結構なことです。
私は今、日本の政府がソヴィエトに対する政策を改めることなく緊張政策をとっていることにある種の疑惑を感じます。
つまり、アメリカの軍事産業と現ソ連当事者の対外恐怖をあおりたてて国内をおさめていくという両国の黒い野望に、
日本政府は、その上、日本の軍事産業までもまんまとのせられている気がします。
(続く)
(今回の文章は『清風』107号(S56(1981)年6月号)より再掲しています。)

『正信偈』のはなし 2014年3月

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日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
(「日本国憲法」前文より)

ここで述べられている「人間相互の関係を支配する崇高な理想」について考えてみよう。
この言葉は、理想という言い方で(その奥にある「実は本音はそんなもん現実を無視した観念論や」と言って)
これまでも、今もほとんど議論にならなかったという経緯があるのではなかろうか。
そして、こうした「前文」が産み出されてきた当時の状況も、ほとんど話題にされてこなかったと思われる。
1つの演説を紹介しよう。
『私はここまで話をすすめてきて、聖書にある「ひとを侍するに己を侍するがごとくす」
および「汝の敵を愛せよ」という2つの言葉を想起し、実に無限の感慨を覚えるのである。
(略)いまや敵軍(日本軍)はわれわれの盟邦によって打倒された。
(略)しかし、われわれはけっして報復を企図してはならない。
ことに敵軍の無辜(むこ…罪の無いこと)の人民に侮辱を加えてはならない。
(略)もしも、暴行をもって敵の従来の暴行に答え、侮辱をもって彼等の従来の誤った優越感に答えるならば、
恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することはなく、
(略)このことは、われわれ一人一人の軍民同胞が今日特別に注意しなければならないことである。』
「抗戦勝利に際しての蒋介石主席の演説」1945年8月15日 ラジオ放送より
    (『史料 日本近現代史Ⅱ 大日本帝国の軌跡』三省堂1965年4月刊)

『明治以来、日本人は特別なのだ、という意識で隣国と付き合ってきたのではあるまいか。
結果として互いに「同じ人間である」という親しさの内に生きる秩序を作り出せなかった。
戦後68年たった今も、隣国への過誤に対して謝罪する必要があるのは、こうした秩序を生み出すためである。』
「今こそ、政治哲学を 平和な共生の秩序作れ」より抜粋
   (加藤信朗 首都大学東京 名誉教授 朝日新聞朝刊 2014年2月5日)

 「崇高な理想」、それは隣国にも同じ人間が住んでいるということである。
たったそれだけのこと。アジア蔑視、わが国は特別な国だという尊大性、それに気づけない。
そうではなく、自己を相対化できる視座を持つこと。その相対化させる視座を「同じ人間」というのであろう。
(今回も「日本国憲法から仏教に学び、仏教の学びを憲法の上に確かめる」という関心から記しています。)

『正信偈』のはなし 2014年2月

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譲りあえば、たりる。奪いあえば、たりない。
武器を持った国から、武器を持たない国へ。
或いは、武器を持った民主主義ではなく、武器を持たない民主主義へ。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、
政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
「日本国憲法」前文

日本の国は、1945年・第2次世界大戦の結果、
世界に先駆けて戦いによらず国と国との問題は外交交渉によって処理することに決し、
軍隊は持たないことを決意しました。
他国を無視しない、隣の国にも同じ人が住んでいる、
という当たり前の感覚を大切にするということです。
国と国においても、やはり利害が各々違い、
その利害を戦争に訴えて処理するのではなく、
話し合って解決の糸を探るということでしょう。
このような憲法の理念に立って、アジアに相互信頼と平和の基盤を作る外交努力を、今からでもしなければならないのです。
米国への過剰期待と依存だけでは、我が国は立ちゆかなくなるに違いありません。
終戦後45年間、冷戦後もなおこの惰性を打ち破ることもせず、日本はアジアで戦争中何をしてきたか検証し和解の努力をする、独自の外交努力をしようとはしてきませんでした。我が国の行為について検証する行為を自虐史観と蔑称し、自ら反省する努力を放棄したまま来ました。
最近、日韓・日中の関係が急にぎくしゃくしてきています。世界の政治環境、アジアの状況もすっかり変わっているのに、冷戦時代と同じ立場で、つまりアメリカの鼻息のみをうかがって、政治家は事にあたろうとしてきたからでしょう。今や、その同盟・アメリカからも我が国の政治動向が不安視され始めている始末です。「日本が日米同盟で中国の脅威を封じ込める」いわば冷戦時代の「ゲーム」を展開している間に、米中は対立の要素を持ちつつも戦略的対話の対象として、認識し世界での影響力を拡大しようとしているのです。
憲法の願いを深化させ徹底する、これが我が国の外交の基本姿勢であるべきでしょう。日本は主体的にアジアに相互信頼と平和の基盤を作る外交努力をする絶好の時代を迎えつつあります。いがみ合いでは、お互いどれだけ武器を持っても不安は解消されないのですから。(この項続く)
先回から「わが国憲法前文と第九条から仏教に学び、仏教の学びを憲法の上に確かめる」という関心をもって記しています。

『正信偈』のはなし 2014年1月

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人間は間違うもの ―再度、法然上人の出家の動機に学ぶ―
法然上人の出家されるにあたっての最大の動機は、領地を巡る争いで夜襲に遭い、
「敵・味方共に救われる道を求めよ」との父の遺言でありました
('12年6月号参照)。
しかし現実は力の論理であり、そんなことは言ってみても結局は絵に描いた餅でしかないと、
こうして戦争(いくさ)はされてきました。
ここからが、歴史の教訓から学んでいけるかという、
動物にはない人の「知恵」に関わる領域に入ると思うのです。
それは「敵・味方共に助かる道」という場合、では敵とは、味方とは、
そんなに自明なものなのかと、まず考えるという点です。 
最近、「特定秘密保護法」が丁寧な国会の議論も踏まえずに、
与党の多数のごり押しで可決されました。
この法案に反対した人、あるいは異議申し立てをした人は、敵でしょうか。
人間の知恵は未来を見通すことはできません。敵は作り出すものです。
たとえば、かつてアメリカは鬼畜米英と言われた様に、日本の政治家にとっては敵でした。
また日本人はそう思うように教育されました。
たかだか70年ほど前のことです。
考えてみましょう。国民を敵・味方に分断するような法案は、
国の権力者の不安感のもたらすものであるということです。
権力者にとって、敵は政権を掌握し続けるために絶えず作り出さねばおけないシロモノなのです。
過ぐる戦争で時の政治家は権力を握り続けるために、
まず国民を治安維持法で政府の行動を批判すらさせず、
黙らせ、中国を敵とし戦いを始め、次にはアメリカが敵だと言い換え、
そして国民を途端の苦しみに陥らせました。
政治家は自己の判断ミスを、今度は若人の純な心を利用し、
特攻隊なるものを作って国を破滅に導いたものです。
人間は間違うもの。
しかし少しずつ反省をしてこそ前進したと言えるのでしょう。
政治家は反省を拒否します。
敵を絶えず作らねばならないのは、反省したくない人だからでしょうか。
今も過ぐる戦争について、中国・朝鮮半島などで日本(軍部)がしてきなことなどを書くと、
それは自虐史観だというレッテル貼りが行われます。
「レッテル貼り」、それは人を黙らせ、対話を拒否することです。
考える、これが動物と違う人間の人間たるゆえんなのに、です。
道徳教育が必要と言うのも国家権力者です。
対話のできない者は、他人には臆面もなく道徳を強要します。
「共に凡夫(ただひと)」(十七条憲法)という地平を忘れないで歩みを進めたいものです。

『正信偈』のはなし 2013年11月

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

今月号では、源空章のまとめということで、
前段でふれられている「悪世」について、もう一度考えてみることにする。
悪世と言えば、いつの時代も悪世でない時代はなかったかもしれない。
しかし、時代を展望できないという意味から言えばどうであろうか。
世間虚仮・三界無安・無明長夜・業苦甚深。
今、この仏教語の意味を詳しく述べるよりは、今の世界、
特に我が国の状況を考えていただけばと思う。
福島原発の大惨事、このこと1つをとっても、この世が悪世というならば、
現代こそ悪世と言わねばならないであろう。
原発の安全神話1つとっても、戦前の不敗神話と対比して、
やはり国民は騙されてきたのだと、やや自虐的に言われる向きもある。
しかし、戦前は治安維持法等の法の下、
国民は時の政府の行おうとしていることを知る権利さえ剥奪されていたのだから、
まだ弁解を許されるかもしれない。
しかし、今、原発推進はそうした法の体制の下で行われていることではない。
原発の問題を知ろうと思えば、少なくとも知ることができたのである。
よく言われてきたのは、日本は資源の少ない国ということである。
この定義が、マイナスに働いたのが、戦前の日本の、
アジアを日本の資源と見る姿勢と言えよう。
そして戦後である。
原発は安全で、しかも安いエネルギー確保ができるという説明(神話)に再び乗ったのである。
意識を持った人類(私)は、原発にもやすやすと乗ってしまった。
何故か。
人類(私)は、エネルギーをどれだけ使ったら満足できるかわからないという生き物であることを、
人類(私)自身が自覚できない代物という点にあるのだ。
少なくとも、今できることは、再生可能な代替エネルギー(太陽光発電等)に
シフトを置くという方針の転換なのかもしれない
 すべての生き物が関係を持って生きているのであるから、
その事実(縁起の法)にかえり、人間のみが、
日本のみが栄華を独り占めしようとする企ては、不安感をもたらしこそすれ、
真の幸福感はもたらさないのである。
「奪い合えば足りぬ、分かち合えば足りる」と、すでに言われてもおることである。

『正信偈』のはなし 2013年10月

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還来生死輪転家 決以疑情為所止 
速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、
決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
必ず信心をもって能入す、といえり。」

輪転の人生とは、すべてが
「成ってみればあたりまえ」であり、人生が結局は、
絶対に迎えたくない死で終わるという
「疑いの情・こころ」を唯一の拠り処として、
それを疑いの心であるとも気づかない人の生涯である。
寂静無為の楽(みやこ)に入るのは、信心によるのである、
とここに書かれている。
さて、では信心とはこういう心なのか。

蓮如上人は信心を「まことのこころ」真実の心だと手紙に書いてくださっている。
(『御文』1帖目15通)
真と言えば、仏教では如来のハタラキと決まっている。
だから、人間からは出てこない質のハタラキと言われている。
人間(私)からは
「欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、
ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」
が出てくるのみと親鸞聖人は文書(『一念多念文意』)に述べておられる。
だから、親鸞自身が「愚禿」としるされ、
あるいは「悲しきかな」としるされているように、
師・法然上人との出遇いは、吾がこころというものの隠しようのない
実態に気づかされるという、目覚めを伴うものであった。
法然上人(という人格)に如来のハタラキを見られたのである。
晩年に作製された法然上人を讃歎される詩(「和讃」)に、
「阿弥陀如来化してこそ 本師・源空としめしけれ 
化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき」
と感動を詠っておられる。寂静無為の楽(みやこ)とは、実体的に存在する所ではなく、
「欲もおおく、そねみ、ねたむこころ」が自分の愚かさ
(虚仮性)のなすところであったとの気づきによって与えられる境地
(心境)と言うべきであろう。
この境地(心境)について漱石は、
「親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、
一方では著しき自己の代表者である」
(「模倣と独立」『漱石文明論集』P161 岩波文庫)という内容をもった心境であると記している。
 私は私の代表である。何故なら、私は私なのであるから。
そして一個の人間として、人類の代表でもある。
何だか気宇壮大になってきた。

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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