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本堂に座って 2017年3月

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毎月のお参りで、本山(東本願寺)から出版されている『真宗の生活』の文章を読んでいます。
この本は、本山から出版されている書籍から一部分を抜き出して掲載し、いろいろな本(12冊)を毎月少しずつ読むことができるように作られています。
今回はその中から、最近読んだ「老い」についてのお話の原文を紹介します。

 ひとのおもいや願いが叶わないことのひとつに「老い」があります。
老いに関しての一般的な考え方は、近代化の「以前」と「以降」では大きく違います。
近代化以前は大家族で、支える地域にも地縁血縁者にも囲まれて、老人は長老として敬老されていました。
近代化以降は、家族規模が縮小して核家族となり、老人の暮らしや介護などが外部化して、家族ではなく老人ホームなどへ移りました。
また、近代化以前は、老人のさまざまな知恵で諭す役割もありました。
そして、老親に孝行する風土がありました。
近代化以降は、産業化が進展し、労働力としては排除の対象となりました。
また、長寿となり、老いに対するイメージや考え方は「敬老される存在」から介護される存在となりました。
しかし、このことは「時代や社会」とともに変化するものとおもいます。
「時代や社会」が変化しても変わらない「老い」について考えてみることにします。
 お釈迦さまが出家する由来の物語として「四門出遊」というおはなしが伝わっています。
お釈迦さまは、今から2500年前、現在のインドの小さな国の王子さまとして生まれられました。
あるとき、お城の外へ出かけようと東の門から出ようとすると「老人」に、南の門から出ようとすると「病人」に、また西の門では「死人」にと、人生において逃れることのできない「老病死」に出会われました。
そして、北の門ですがすがしい出家僧に出会い、出家されたといい伝えられています。お釈迦さまが29歳の時のことでした。
 「老い」は、そのテーマである「老病死」のひとつであり、人間にとって逃れることのできない、じぶんの意志では叶わないことのひとつです。
「老い」に至る人生の歩みは、どれひとつも「夢」ではなく「事実」です。
老いの道中は、「叶わない」「意のままにならない」ことのなかで、苦渋を味わい、また、悲しみの中で、ひとはみ教えを聞き、正しく観ることを知ることになります。
それは、「あきらめ」ではなく、「正しく観る」ことで、他人事ではなく、「じぶん」のこととしてみえてくるのだとおもいます。
 ボクは樹木からさまざまな教えを聞いてきました。樹木は、陽春に芽吹き、新芽が育ちます。まるで赤ちゃんが育つかのようです。
次第に季節が初夏に向かえば、新緑の葉っぱは立派に育ちます。
そして、季節が移ろい秋になり冬に向かいはじめ寒風が吹き始めると、広葉樹の樹木は、錦秋の彩りをみせてくれます。
「老い」の輝きが艶やかにさえみえます。
ひとびとを、「もみじ狩り」に足しげく向かわせるのは、錦秋の彩りに秘められた多くの物語と出会うからではないでしょうか。
その背景には、春の桜にはない、「人生の趣」を感じるからのようにおもいます。
そして、落葉の季節を迎えます。
しかし、枯れ葉の後には、すでに新芽が準備されていることは、驚きです。
「老い」は、単独であるものではなく、「起承転結」のなかにあり、それは、「いのち」の連なりでありバトンタッチのときでもあります。
また、大地へ還ることは、「いのち」の源である樹木を肥やす滋養となるのですから、「老い」のはたす役割は「尊い」ものであるといえます。
「老い」もこのように考えてみると、「老い」をじぶんのものと独占していることが間違いであることになります。
じぶんの「老い」から、解放されて「つながり」のなかで考えてみてはいかがでしょう。
大きな「つながり」のなかに、「連綿とつづく」なかに「いのち」があります。そのなかに、おひとりおひとりの「老い」があるということです。
このように「老い」も、じぶんの手元から解放されてはじめて、「衰えること」から意味が転じて、大きな「いのち」として「よみがえる」という世界がみえてきます。
(『すべてが君の足あとだから-人生の道案内-』佐賀枝夏文 著より引用しました。)

本堂に座って 2017年2月

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あるテレビ番組で「現代を生きる私たちの矛盾を風刺的に表現した」として紹介された文章が気になって調べてみました。
その文章を(一部省略して)紹介します。

この時代に生きる 私たちの矛盾
ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
お金を使っているが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている

家は大きくなったが 家庭は小さくなり
より便利になったが 時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている

飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し 笑うことは少なく
猛スピードで運転し すぐ怒り
夜更かしをしすぎて 起きたときは疲れすぎている
読むことは稀で テレビは長く見るが 祈ることはとても稀である
持ち物は増えているが 自分の価値は下がっている
喋りすぎるが 愛することは稀であるどころか憎むことが多すぎる

生計のたてかたは学んだが 人生を学んではいない
長生きするようになったが 長らく今を生きていない
月まで行き来できるのに 近所同士の争いは絶えない
世界は支配したが 内世界はどうなのか
前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない

空気を浄化し 魂を汚し
原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
計画は増えたが 成し遂げられていない
たくさん書いているが 学びはせず

情報を手に入れ 多くのコンピュータを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている
ファースト・フードで消化は遅く
体は大きいが 人格は小さく
利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
レジャーは増えても 楽しみは少なく
たくさんの食べ物に恵まれても 栄養は少ない
夫婦でかせいでも、離婚も増え
家は良くなったが 家庭は壊れている

忘れないでほしい 愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることのできるこの唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい あなたのパートナーや愛する者に
「愛している」と言うことを 心を込めて
(ボブ・ムーアヘッド:原作 佐々木圭一:訳)

本堂に座って 2017年1月

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2016年は「改憲」の話題や参院選などがあったことから、守綱寺でも「憲法カフェ」を開催するなど、日本国憲法についての話を聞く機会を今まで以上に持ちました。
年末には法律学の研究者であり真宗の教えを深く聞いておられる平川宗信先生のお話を聞かせていただきました。
今月は、平川先生が新聞に寄稿された真宗の教えと日本国憲法についての文章を紹介します。

私は、現在の日本国憲法は本願に照らして高く評価できる憲法だと思います。
日本国憲法は、前文で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言しています。
「恒久の平和」は「浄土」と、「崇高な理想」は「本願」と重なります。
そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」できるのは、本願が全人類に届いているからでありましょう。
これは、「日本国民は本願に立って平和を守る」という宣言です。
そして、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭」そして「恐怖と欠乏」をなくそうとする決意は、「地獄・餓鬼・畜生なからしめん」という大無量寿経の第一願「無三悪趣の願」と重なります。
戦争は「地獄」、欠乏は「餓鬼」です。
専制・隷従・圧迫・偏狭・恐怖は人間を「畜生」にするものです。
さらに、戦争放棄・戦力不保持を規定した第九条は、釈尊の「殺すな、殺させるな」という不殺生戒、大無量寿経の「兵戈無用」(武器も兵隊もいらない)と重なります。
私は、日本国憲法は、武力ではなく本願力を恃(たの)み、本願に願われた世界を求める国家を目指した「本願国家宣言」だと思います。
これに対して、改憲案の前文は、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、(中略)天皇を戴く国家であ」り、「(困難)を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」とした上で、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」、「経済活動を通じて国を成長させ」、「国家を末永く子孫に継承するため」に「憲法を制定する」としています。
ここでは、国家が前面に出され、その歴史・文化・天皇制や発展が誇られています。
ここには、地上の国家は「穢土」であるという、如来の視点はありません。
国民は、国土防衛、経済成長、国家の継承のための存在とされています。
これは、国民を国家に従属する「畜生」とするものです。
また、経済成長を国家目標とすることは、「餓鬼」でありましょう。
改憲案では、平和主義も、友好関係の増進と平和・繁栄への貢献という、抽象的な内容にされています。
そして、第九条は自衛戦争を認める規定に変えられ、国防軍の保持、国際的軍事行動への参加、軍事法制の整備等を定める条文が新設されています。
これは、戦争・「地獄」を求める国を目指すものです。改憲案は、「地獄・餓鬼・畜生」の「三悪趣国家」を目指す物といわざるをえません。
真宗者が選ぶべき憲法が現行憲法であることは、明らかだと思います。
ただし、現行憲法を護れば問題ないというわけではありません。
また最近は、解釈や立法で憲法を済し崩す動きも顕著です。
このような動きも阻止されなければなりません。
とはいえ、現状を座視・黙認・支持して支えているのは私たちです。
そこには、三悪趣を生きる私たちがあります。私たちは、三悪趣に安住するような念仏しかしてこなかったのではないか。
真宗者には、今こそ親鸞聖人の念仏に立ち帰ることが願われていると思います。
(中日新聞2015年2月27日付『真宗者と現代社会(下)』平川宗信 著より引用しました。)

憲法についての話を聞くたびに、「憲法の理念は仏教・真宗に通じる」と何となく感じていたのですが、平川先生のお話を聞いてハッキリしました。
自分がどんな世界を願っているのか…それを見つけ出す“学び”を深めていきたいものです。

本堂に座って 2016年12月

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よく見ているテレビの書評番組で、『人間にとって健康とは何か』という本が紹介されていました。
自分自身は「健康」について、ふだんそれほど意識することは無いのですが、「幸福」を“過程”、「健康」を“状態”と考える視点が面白いと思い、読んでみました。
内容は…かなり難しくて読み進めるのがやっとという感じでしたが、WHOの健康についての定義「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」ことから始まり、「幸福」「健康」の受け止め方で終わります。
ここでは「幸福と健康」・「過程と状態」について書かれている部分を引用します。

私たちは幸福については雄弁に語る。
病気についてもお喋りになる。
しかし私たちは、健康についてはほとんど語らない。
いや、もっと正確にいえば、私たちは健康法やサプリで「健康になること」は好んで語るが、「健康であること」については語らない。
これはなぜなのだろうか。
中井久夫氏は戦争と平和についてこう書いている。
戦争は「過程」であり、平和は「状態」である、と。
これは「なぜ平和が維持しにくいのか」ということの説明として、非常に説得力がある。
中井氏によれば戦争とは、始まりと終わりがある「期限付きのプロセス」だ。
「勝利のため」という一点に気持ちを集中させやすく、それ以外のことは単純化されやすい。
プロセスには目的、意義、そして戦略がある。
好戦的な人の言葉が説得性を帯びやすいのは、プロセスのほうがとにかく語りやすいためである。
一方で、平和は「状態」だ。
輪郭もなく、曖昧で、目的があるともないともいえない。
なぜ平和がよいのかと尋ねられても「だって平和のほうがいいに決まっているでしょう」というトートロジー(いつまでも同じことのくりかえしで先に進まない議論)になってしまう。
平和主義者の言葉が、概して曖昧で説得力に乏しく思われるのは、そのためもある。
ここで「戦争」を「幸福」、「平和」を「健康」に置き換えてみよう。
すなわち幸福は過程であり、健康は状態である、と。
つまり、幸福は過程であるがゆえに雄弁に語られうるが、健康は状態であるがゆえに語る言葉に乏しいのである。
別の言い方をするなら、幸福は過程だからこそ「上限」がなく、健康は状態だからこそ定常状態がある。
「世界一幸せです!」という言い回しと同じニュアンスで「世界一健康です!」と宣言する人はまずいまい。
私たちが自らの健康にすらしばしば無関心になるのは、それが「平和」と同様の定常状態と感じているからだ。
だから健康は幸福以上に、「失って初めてその価値に気付く」ものなのである。
もし「幸福」を状態のように語ることが可能になれば、健康との両立が可能になるだろう。
幸福を「過程」として捉えるかぎりは、それは決して安定的な所有物たりえないが、「状態」として捉えることで、誰もが手に入れられるものとなる。
過程としての健康を求め、状態としての幸福を享受する。この姿勢こそが、健康と幸福のもっとも安定した関係といえるのではないか。
(『人間にとって健康とは何か』斎藤 環 著より抜粋して引用しました。)

「幸福になること」については目的地がハッキリしているので実感しやすいのですが、「健康であること」は“あたりまえ”になってしまうことで「見えない・語られない」ものになってしまっているのでしょう。
だからこそ「失って初めてその価値に気付く」ことになるのですが…。
今月号の「清風」1面に「あたりまえにある日常のありがたさ…」ということばが紹介されていますが、これこそが「幸福であること(=「幸福」を状態として語ること)」なのだと思います。
「幸福」は「なるもの」ではなく「あること」だと知ることで、条件に依らない「幸福」を見つけることができるのだと思います。

本堂に座って 2016年11月

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9月下旬に、以前このページに文章を紹介した三谷宏治さんの講演を聞く機会がありました。
小学生向けのお話で、テーマは「発想力」。お話は以下の質問から始まりました(ネタバレになっちゃいますが…)。


右の図を見て、①~③のいずれかに手を挙げます。
①Aのが長い ②Bのが長い ③A・Bとも同じ
三谷さんいわく、小学3年生以上になると、ほぼみんな同じ答え(=③番)に手を挙げるそうです。
この手の問題が出たときには「長さが違って見えるのは目の錯覚で、実は同じ長さ」だと“知っている”からです。
でも実際は…きちんと測るとBのが長くなっています。
パッと見ただけでわかったことにしてしまい、疑うことをせず、確かめることもしなかったので、正しい答えを導き出せなかったのです。
既存の知識や常識に違和感や疑問を持つことから、独自の「発想」が生まれると三谷さんは言われていました。
わかっているから、わからない…こんなお話に池田勇諦先生の著書でも出会うことになりました。

これはたまたまラジオで聞いた、アニメ映画で著名な宮崎駿監督の発言です。
「現代のあらゆる領域における行き詰まり状況は、戦後日本人が万事について“どうしたらよいか”という対症療法的発想でやってきたことのツケではないだろうか。それに対して、鎌倉期に出現した法然・親鸞という人は“なぜか”という根本的思考を生きた人ではなかったか。この発想こそ現代のわれわれが学ばねばならぬ一点ではなかろうか」。
私の記憶では、おおむねこんなことをおっしゃっていました。
かつて、「テロなくすための戦争、テロを生み」という川柳がありました。
それはまさに、対症療法的な発想では報復の連鎖を断ち切ることはできないことを語っています。(中略)
日ごろ「仏法がわからん」という溜め息のような発言によく接します。
誰しもが通る道ですが、それについても忘れられないことがあります。
以前、お寺の集いで、清沢満之師の絶筆『我が信念』を読んでいたときのことです。
「私は何が善だやら、何が悪だやら、(中略)何が幸福だやら、何が不幸だやら、何も知り分くる能力のない私……」という文章のところで、ある人が「清沢先生ですらわからんと言われているのやから、私たちがわかるはずがないですよね」と発言されたので、思わず大笑いになったのです。
それはなぜか。まったく逆だからです。
清沢先生だから、わからんとおっしゃった。
私たちはわかっているのですね。
健康であることは幸福、病気は不幸。
お金があることは幸福、貧乏は不幸…。みんなわかっているから、仏法に相談する必要がないのです。
健康であっても暗い顔もあれば、病気であっても明るい顔もある…。
何が幸福なのか、何が不幸なのか、何が善なのか、何が悪なのか、わからなくなる。
わかっていたはずの人生がわからなくなる、この歩みこそ真宗入門の歩みでありましょう。
わからんことになって、わかる真宗。
わかっているから、わからん真宗。
妙ですね。
(『浄土真宗入門』- 池田勇諦 著より抜粋して引用しました。)

池田先生は「真宗入門」について、冒頭で「実践概念であり動詞です」と話しておられます。
三谷さんは矢印問題について「発想のお話会でこんな問題が出たら、アヤシイと思わないか?(=なぜかを考える)」「アヤシイと思ったら座って遠目に見ている(上図はスクリーンに映されていました)のではなく、動いて確かめてみればいい。ただ座って悩んでいるのは、考えていないのと同じ」だと言われました。
矢印の様な問題も、世の中の問題も、自分自身のことも、わかったことにして本当のところがわかっていない…。
頭(だけ)であれこれ考えているつもりで、体を動かしてみる・身に引き寄せて確かめてみることがない…。
大切なことは、「答えの出し方をおぼえる・どうしたらよいかを教わる」ことではなく、「物事に対し疑問を投げ掛けてみる・なぜそうなるのかを考える」ことから見えてくるのでしょう。

本堂に座って 2016年10月

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これまで数ヶ月にわたって『嫌われる勇気』という本からの引用を続けてきました。
「ほめても、叱ってもいけない」、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」など、分かりやすいようで、実際にはどうやったらいいのかが難しい内容が多かった様にも思います。
「自分は共同体にとって有益である」「他者に貢献できている」と感じられる感覚 ―「共同体感覚」を読み取りながらまとめてみたいと思います。

他者を「敵」と見なすか、あるいは「仲間」と見なすのか ― もしも他者が仲間だとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。
さらには、仲間たち(共同体)のために貢献しようと思えるようになるでしょう。
このように、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。
共同体感覚を持てるようになるために必要になるのが「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」の3つになります。
まずは「自己受容」。われわれは「わたし」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできない。
大切なのは「与えられたものをどう使うか」です。
ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。
自己肯定ではなく自己受容です。
この両者には明確な違いがあります。
自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」と、自らに暗示をかけることです。
一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、前に進んでいくことです。
「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。
われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。
しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力で変えていくことができます。
わたしのいう自己受容とは、そういうことです。われわれはなにかの能力が足りないのではありません。
ただ“勇気”が足りていないのです。
次に「他者信頼」について。
ここでは「信じる」という言葉を、信用と信頼とに区別して考えます。
信用とは条件つきの話です。
これに対して、対人関係の基礎は「信頼」によって成立しているのだ、と考えるのがアドラー心理学の立場になります。
信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。
客観的根拠がなかろうと、無条件に信じる。それが信頼です。信頼の反対にあるものは、懐疑です。
仮にあなたが、対人関係の基礎に「懐疑」を置いていたとしましょう。
そこからなにかしらの前向きな関係が築けると思いますか?われわれは無条件の信頼を置くからこそ、深い関係が築けるのです。
裏切るのか裏切らないのかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。
あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。
自分を受け入れることができて、なおかつ他者を信頼することができる。
この場合、あなたにとっての他者は仲間です。
他者のことを敵だと思っている人は、自己受容もできていないし、他者信頼も不十分なのです。
しかし、共同体感覚とは自己受容と他者信頼だけで得られるものではありません。「他者貢献」が必要になってきます。
他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。
この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわないのです。
あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは、あなたではありません。
ほんとうに貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。
つまり、たとえ目に見える貢献でなくとも「貢献感」を持てれば、それでいいのです。

 われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。
過去にどんなことがあったか、未来がどうであるかなど、「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
アドラーは「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と語っています。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえないのです。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)

本堂に座って 2016年9月

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夏休みも終わりに近づき、休み中の「出校日」に宿題を出してしまった子どもたちには“これがホントの夏休み”という日が続いています。
宿題については先月の心配が当たってしまい、出校日直前まで「親子でがんばって」、ようやく終わらせたのでした。
無理強いはしたくないけれど、でもちゃんとやって欲しい…「水辺に連れていった馬に、どうやって水を呑ませるのか?」先月の続きの文章を、『嫌われる勇気』から紹介します。

アドラー心理学では「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。
つまりわれわれは、対人関係からの自由を求めている。「自由とはなにか?」の結論は「自由とは、他者から嫌われることである」。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自由になれないのです。
「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題かもしれませんが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。
わたしをよく思わない人がいたとしても、そこに介入することはできません。
無論、先に紹介したことわざでいうなら「馬を水辺に連れていく」ところまでの努力はするでしょう。
しかし、そこで水を呑むか呑まないかは、その人の課題なのです。幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。
その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。
アドラー心理学では、子育てをはじめとする他者とのコミュニケーション全般について、「ほめてはいけないし、叱ってもいけない」という立場をとります。
ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。
つまり、ほめる母親は、無意識のうちに上下関係をつくり、子どものことを自分よりも低く見ているのです。
誰かにほめられたいと願うこと。
あるいは逆に、他者をほめてやろうとすること。
これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です。
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。
課題の分離について説明するとき、他者の課題に対して土足で踏み込んでいくような行為=介入について話しました。
対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって相手を望ましい方向に導こうとする。
自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。子どもに「勉強しなさい」と命令する親などは、まさに典型です。
本人としては善意による働きかけのつもりかもしれませんが、結局は土足で踏み込んで、自分の意図する方向に操作しようとしているのですから。
では、もし目の前に苦しんでいる人がいたらどうするか?見過ごすわけにはいきません。
介入にならない「援助」をする必要があります。
援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。
勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強できるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」という、あのアプローチです。
課題に立ち向かうのは本人ですし、その決心をするのも本人です。
こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。
勇気づけにいちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。
評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。
ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けているわけです。
そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは、他者の物差しです。
一方、「ありがとう」は評価ではなく、もっと純粋な感謝の言葉です。人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります。
人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。
他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること、勇気づけの話もすべてはここにつながります。
(『嫌われる勇気』岸見一郎・古賀史健 著より抜粋して引用しました。)
(来月もこの本から引用する予定です。)

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プロフィール

守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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