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清風 2017年9月

テーマ:清風 【住職】

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現代社会に生きる人間は、欲望する存在ということです。欲望する存在とは、他人に対して優越し見栄をはろうと欲望することです。
人間関係がすべて虚栄心から生まれる。そこに現代社会の実相があります。

「現代社会と人間の問題」(『南御堂』紙 2004年4月号11面)
今村仁司(1942~2007) 専門:社会哲学・思想史
著書『親鸞と学的精神』『清沢満之と哲学』(岩波書店)その他多数。


親鸞聖人が法然上人から聞かれた言葉に、人間には「勝他・名聞・利養」という煩悩があるのだと記されています(『口伝抄』)。
「勝他」とは、まさに「他人に対して優越しよう、見栄をはろう」とすることでしょう。
「名聞」とは「有名になりたい」ということ、そして「利養」とは有名になって「いい目に会いたい」ということだといわれています。
昨年の7月のことになりますが、相模原市の障害者施設で重度の障害者を狙い、19人が殺害された事件が起こりました。
その事件を起こしたのは、その施設で介護職をしていた元職員でした。
その後の取り調べで、この元職員は前もって決行について次のように記していたとされています。
「障害者は不幸を作ることしかできません。」「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。」など、と。
この元職員が記している「全人類が心の隅に隠した想い」をもって今回の決行の決意とするという文面は、私たちもそのような想いを「隠した想い」として、それこそ一度胸に手を当てて考えてみなければ…と思った方もおられるのではないでしょうか。
「障害者は不幸を作ることしかできない」のであって、その存在は認められない、ということでしょう。
それは何故か?障害者は、社会の発展に間に合わない、厄介なものだというのでしょう。
現代社会ではG7 ―G7はGNP(国民総生産高)上位7位の略ですが― 先進7ヶ国と言われ、G7以外は発展途上国などと通称されるように、現代では総生産高がその国をはかるモノサシとなっています。
つまり、物の生産です。
どれだけ貨幣を稼ぐかというのが、すべてに先立つ評価の基準になっているということでしょう。
新聞報道によれば、愛知県は名古屋港近くにカジノ(賭博場)を作る計画を立てたと報道されています。
貨幣を稼ぐためなら賭博場も作ろう、というわけです。
早い話が、障害者は稼がない者、だから社会の厄介者という断定に立って、この事件は起こされたわけです。
そしてその加害者の主張は、「全人類・日本人ならすべての人が、表立っては言わないかも知れないが、心の隅に隠した想い」である、と。
その「隠した想い」とは、上に紹介した文章からいえば、「他人に対して優越しよう、見栄をはろう」とする、虚栄心のことでしょう。
この欲望は「虚栄」だから限界がない。
かなえば「もっと、もっと」と際限がない。
つまり私どもの日常の言葉にすれば「当たり前」。要するに、「虚栄」であるということは「飢餓的」であって際限がないということです。
「真の満足が得られない」ということでしょう。
「真の満足」がほしい、これが先進7ヶ国の住民の、偽りのない事実でしょう。
「障害者は不幸しか作れない」という人がどれだけ幸せであったか、はなはだ疑問だと思うのですが。

さてここで原点に返って、人間(私)について考えたいと思います。
人は、人間 ― 人の間と書きます。
人という字も「人」と「人」から出来ているように、支え合っているということを表現しています。
人間はその字を見てもわかるように、人と人の間に生きて初めて人と成れる生き物であるようです。
障害者に出会って、障害者から問いを受けた、それが人間であることの意味というわけです。
「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております」と元職員(加害者)は述べています。
障害者から健常者(と言ったらいいのでしょうか?)は問われているのでしょう。
「障害者は生きる意味はないのですか?」「人にとって、生きるとはどういうことですか?」と。
いわゆる付加価値(学歴・健康・若さ、など)をつけていくこと、これが現代人の、学校で学ぶことから始まって生涯を過ごす、大きな関心事でしょう。
しかし、長寿ということが長年の人類の悲願であったと言えるかと思いますが、世界でも有数の長寿を達成した国、日本ではどうでしょうか。
「長生きはめでたい事なのか」という題で投書をされていたのは、83歳の男性でした。
投書の内容は、老齢になっての不安、認知症・介護の世話にならなければならなくなる、そして尊厳死・安楽死が可能となる法的環境を整えてほしいというものでした。

みんな誰でも生まれて生きる以上は老・病・死を避けて通るわけにはいきません。
結局、今問われているのは「なぜ命は尊いのか」ということでしょう。
付加価値という「ころも(衣)」を着けたいのちではなく、付加価値を付けていない、裸のいのち、それが尊いと言える根拠、病んでいても、老いていても、そのままで「命は尊い」と言える根拠は何ですか、と。(続く)

 

清風 2017年8月

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私には 敵はいない。

劉 暁波(リュウ・シァオ・ポー)中国
2010年 ノーベル平和賞を受賞。
中国の民主化を訴えて投獄されたまま、今年6月に末期の肝臓ガンと判明。
刑務所外の病院で治療中、7月13日死去。61才。


劉さんは、1989年、北京の天安門広場で学生らが民主化を求める運動を始めるとデモに加わり、ハンガーストを指揮。劉さんが一貫してこだわったのは、非暴力の抵抗だった。
学生に向かって「恨みを捨てよう。恨みは私たちの心をむしばむ。私たちに敵はいない。理性的に対話しよう。」と訴え続けた。

劉さんの「敵はいない」。
この確信こそは、今、我が国の平和主義のシンボルと言える「憲法・第9条」の理念を巡っての議論の根幹を、一言でわかりやすく述べたものと言えよう。

劉さんの「私には敵はいない」という主張は、非暴力の立場である。
我が国の憲法では、その立場を憲法前文の第1段・第2段に、その平和主義を次のように述べている。
(以下の憲法前文の第1段の引用については、劉さんの主張「私には敵はいない」
に応答する部分に絞って引用していることを、申し添えておきます。)

<日本国憲法 前文>
日本国民は、
政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、

日本国民は、
① 恒久の平和を念願し、
② 人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、
③ 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
④ われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、
① いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないので
   あって、
② 政治道徳の法則は、普遍的なものであり、
③ この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうと
     する各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

この「崇高な理念と目的」とは、いうまでもなく平和のことであり、憲法第9条の2項目(第1項 日本は戦争をしない、第2項 戦力は持たない。交戦権も認めない)を指すといえる。

それ以外にも、前に挙げた前文の中の次の文に示されてある、

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去
しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

また、

いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないの
であって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

というように、我が国は憲法前文において決意したような国作りに向けて、外交の方針を転換できるチャンスがあった。
1989年、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結した時である。

今からでも遅くはない。それこそ10年くらいの計画で、我が国はこの憲法前文の平和主義を我が国の外交方針として外交を進めることとして、第二次大戦終結のための北朝鮮との平和条約締結を含め、中立宣言、そして先月号にも書いた沖縄基地閉鎖、そしてその上で沖縄・北方4島の一括変換交渉という、今までできなかった戦後の処理を行い、我々国民も未来を見据えて、憲法の内容に沿った、北東アジアに位置する平和国家の国民として新たに生まれ変わってゆきたいものである。

親鸞その人の「非僧非俗」の名告りこそは、劉さんの「私には敵はいない」という言葉と感応していると言えるのであろう。

清風 2017年6月

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今、いのちがあなたを生きている
Now Infinite Life of Amida is Living you.
2011年 親鸞聖人750回御遠忌テーマ
 


「人はなぜ、長命を願ってきたのだろう」と問えば、あなたはどう答えますか。
おそらく、「生はともかく、私にとって一人称の死は経験外のことだから…」という答えが返ってくるのでしょう。
しかし、延ばしても延ばしても、その先にはやはり死があることは事実です。死から帰ってきた人はいません。
時々、臨死体験なるものが死の経験談であるかの如く発表されることがありますが、発表できた限り生きていたのであって、やはり死んだのではなかったのでしょう。
分からねばならないことと分からなくてもよいこととの区別がつかない、ここに現代人の最大の不幸があると言わねばならないようです。
その区別がつけば、「わからない」ことは「わからない」としておけばいいのです。
さてそれでは、何のために長命でなければならないのでしょうか。
実は、死(あるいは死後)が不安なのではなく、むしろ生が分からないのです。
仏教、ことに浄土教はその意味を問おうとしています。
では、その意味とは何でしょうか。
念仏の教えを聞いてきた先達は、生きる意味をまじめに尋ねる人に応えました。
「あなたは、お恥ずかしいという言葉を知っていますか」と。
「いのちがある間は生かせていただくのです。いのちつきればこの世とお別れさせていただくのです。心配はいりません。いのちが与えられて私が生きているのであって、その逆ではないからです。」と。
「お与え」というのはいかにも頼りないように聞こえますが、実は最も積極的な生の在り様を表現する言葉のようです。いのちの事実は、すべてお与えなのです。
私にまで届けられたそのいのちは、実は私に何を望んでいるのでしょうか…と、私が「問われた者としてある」という目覚めからのみ、生きる責任・喜び、つまりお与えに応える生き方をしてきたのだろうかという、思いも及ばなかった生き方が始まるのです。
それこそが「お恥ずかしい」という生き方で示された、私どもには思いも及ばない応答であったのです。

清風 2017年5月

テーマ:清風 【住職】

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自己とは何ぞや
これ人生の根本問題なり   清沢満之
 


多少人生を経験した方 ―例えば、少し重い病気を経験した方― は、この病気さえ治ったら、もう何も問題はないと思われたに違いないし、またその病気が治ってしばらくすれば、もう健康は当たり前としてしまったのではないかと思う。
私のおかれている身の状況が自分の願っていたように変われば、ことは解決されるのだと。

次に挙げる三つの言葉が、このことを考えるヒントになると思う。
①「当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます。」   (2016年 選抜高校野球大会 選手宣誓より)
②「長生きはめでたいことなのか」
(83歳 男性 新聞の投稿から)
③ あなたにとって幸せとは何ですか? 「呼吸のできることです。」
(水木しげるさん 漫画家 代表作『ゲゲゲの鬼太郎』)

人間(私)はその知恵ゆえに、目の前に起きている事態を「私の判断基準」で評価している。
尺度に合えば全て当たり前として見過ごし、合わなければ状況を必死に変えようとする。
その場合、変わったのは状況だけで、「私の知恵で全てを判断していく」という状況に対する私の姿勢は何も変わってはいない。
釈尊が「覚者」と言われるのは、私が立っている立場を再検討し、何が本当に自分を苦しめているのか ― つまり、苦しんでいる自分とは何者なのかを明らかにされたことによる。
覚者(ブッダ)とは、「私は自我(エゴ)を自己と錯覚していた」と目覚めた人である。
自分が自我に振り回されている、これが凡夫と言われる人間の原存在性である。
それが、仏教(ブッダ=目覚めた者 に成る教え)と言われるものであった。

<参考>
「ものが縛るのではありません。ものをとらえる心に縛られるのです。」
(法語カレンダー(真宗教団連合発行)2015年6月 仲野良俊師の言葉)
自業自得ということ(自業自得という語は、他人に向けて言う言葉ではない)。

清風 2017年4月

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あなたはあなたで在ればよい
あなたはあなたに成ればよい   釈尊
 


もう60年ほど前、アメリカの映画の主題歌で我が国でもよく歌われた「ケ・セラ・セラ」は、各フレーズの最後に「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」という言葉が繰り返されました。
歌詞は知らなくても、この繰り返される部分のみは覚えている方もおられると思います(私もその1人です)。
この歌が流行したずーっと後に、聞いた言葉が次のようなものでした。

どうかならなければ幸せになれないものは
どうなってでもその幸せは 長くは続かない  釈尊

そして現在、私どもがよく聞く言葉は「いのちは尊い だから 大切にしなければならない」というものです。
この言葉を聞いて、何か落ち着かない―もう少し言わせてもらえるならば、何かうさん臭さを感じるのはなぜなのでしょう。
今よく使われる言葉で言うならば「上から目線」ということでしょうか。
「ケ・セラ・セラ」で繰り返されるフレーズ「なるようになるわ さきのことなど わからない わからない」を聞くと、妙に納得したというか「わかりました」と引き下がらずにはおれないものを感じさせられたことですが、どうでしょう。
私は冒頭に掲げたこの釈尊の言葉に出遇い、「そうか」と思わせられたことでした。
それは、こういうことかと思います。
「いのちは尊い」と言われてきたのは、物のように代わりはない―つまり「私のものではない、他人のものもない」という至極当たり前の事実を表現しているということ。
そうです、「いのちはいのちのもの」であったのですし、あるのでしょう。だから「いのちは尊い」と言われてきたのです。
つまり端的に言って、いのちは与えられたもの、私に預けられたものであったのです。
では、預けられたいのちは、私に何を願っているのでしょうか。
それを表現しているのが、上に掲げた釈尊の言葉であったのです。
俗にも「(私の)思うようには ならないけれど なるようには なる」と言われています。

清風 2017年3月

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あなたにとって、幸せとは何ですか。
呼吸のできることです。
水木しげる(漫画家「ゲゲゲの鬼太郎」作者 1922~2015)


幸せを求めて生きている、これが我々の生きる根っこにある普通の関心事ではないだろうか。
誰も、不幸であることを望んで生きているという人もなかろうから。
そして幸せとは、未来におかれている何らかの事態を、やがて手にすることができると考えていることだといえよう。
受験生なら合格する、というように。
少なくともその場合、呼吸のできる状況は「当たり前」のこととして見過ごされている。
水木さんは幸せを、未来に手にすることがらではなく、「呼吸のできることです」と言われている。
幸せを未来にではなく現に「今」ここに確かに手に入れていると言われる。
幸せとは、もちろんその前提として「呼吸ができること」が条件であると言えよう。
常識的には、それは「当たり前」のこととして問題としない。
水木さんは、その前提として当たり前と見過ごしていることがらを、それをこそ幸せそのものと言われるのである。
人生全て、呼吸ができて初めて経験できることと言える。
不幸ですらも呼吸ができていて可能と言える。
とすると、現在でもよく聞く「いのちは尊い」という意味は、この水木さんの言われることを踏まえなければ、よくわからないことと言えるようである。
「いのちは尊い」という言葉も、「ではなぜ、いのちは尊いのか」とあらためて聞かれると、「えっと?」と我々は、一歩、瞬間的に引くのではないだろうか。
気がついたら、私は生まれて、生きていたのである。
つまり私が今、幸せならばもちろん、不幸であっても、その前提として生きているからと言えなければならない(いのちを与えられていて全ては成立可能であるから)。
それは、つまり呼吸ができるということは、奇跡が今、私に実現していると言わねばならないような事態だったのである。
仏教のイロハは「人身 受け難し」である。
全ては与えられて始まったこと。
それが人生である、と。

清風 2017年2月

テーマ:清風 【住職】

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近代文明ほど、人間に対して敵 対的な文明は歴史上存在したことがない。
それは、スリリングな文明であり、人を憩わせることがない。
これが史上初めてのヒューマニズムを標榜する文明であったことは、それ自体スリリングな逆説である。

『荒野に立つ虹』渡辺京二著(P139 葦書房 1999年10月初版第1刷)
(現在は『新編 荒野に立つ虹』として弦書房より刊行(2016年11月)されています)
著者…1930年生まれ、思想家。
著書『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞受賞、平凡社ライブラリー)『黒船前夜』(大佛次郎賞受賞、洋泉社)など。


刑法で禁じられているはずの賭博を合法化する議員立法(カ ジノ法・IR法)が、多くの欠陥が指摘される中、衆議院の委員会の6時間にも満たない審議で与党の多数で強行採決され(参議院の内閣委員会では16時間の審議)、賭博を禁じた刑法のもとで民営賭博を認めるという、法秩序の大転換に向けた決定がされた。
今後、こうした問題を含むカ ジノ法は、安倍首相を本部長とする「整備推進本部」のもと、有識者による整備推進会議やカジノ管理委員会の設置が予定されている。
カジノ法による賭博場は、1日24時間、365日休みなし、賭け金額の上限がない。
カジノの公益性とは何であろうか。
詳しいことは、カジノ法の下に設置される諸会議で慎重に(?)審議されていくことを期待したい。
要するにこの法は、施設が稼働すれば経済的効果が大きく公益性を満たすという論法が繰り返された。
経済効果があれば、賭博依存症というような人を生む可能性が多分に予想される「人間に対して敵対的な施設」が、政府の音頭取りで合法化されていく。
まさに近・現代の文明の一つの象徴と言えようか。
ヒューマニズムとは人間尊重という主義ではなかったのか。
人間を非 人間化する施設が経済効果の大義を付けて合理化されていく。
人間のための経済が、経済(利潤)のために人間が資源として使われる事態が、堂々とまかり通ることとなった。

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守綱寺

守綱寺

守綱寺は、「槍の半蔵」として有名な
渡辺半蔵守綱の菩提寺として1644年に建立されました。
浄土真宗(親鸞聖人)の教えを伝えるお寺で、
「南無阿弥陀仏」を唱えます。

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